・・・ 斉広がいつものように、殿中の一間で煙草をくゆらせていると、西王母を描いた金襖が、静に開いて、黒手の黄八丈に、黒の紋附の羽織を着た坊主が一人、恭しく、彼の前へ這って出た。顔を上げずにいるので、誰だかまだわからない。――斉広は、何か用が出・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私を唆かすような、やさしい語をかけてくれる。が、一度自分の醜さを知った女の・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入って来た人に冷やかな、不愉快な印象を与える。鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射たのは、何よりもこの黒い椅子であった。 さて一列の・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚いふきを踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・並の席より尺余床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寝に就く事になった。幼ないもの共は茶室へ寝るのを非常に悦んだ。そうして間もなく無心に眠ってしまった。二人の姉共と彼らの母とは、この気味の悪い雨の夜に別れ別れに・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・終日、二階の一間で仕事をしていました。その仕事場の台の前に、一羽の翼の長い鳥がじっとして立っています。ちょうど、それは鋳物で造られた鳥か、また、剥製のように見られたのでありました。 男は、夜おそくまで、障子を開け放して、ランプの下で仕事・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 階下へ降りてみると、門を開放った往来から見通しのその一間で、岩畳にできた大きな餉台のような物を囲んで、三四人飯を食っていた。めいめいに小さな飯鉢を控えて、味噌汁は一杯ずつ上さんに盛ってもらっている。上さんは裾を高々と端折揚げて一致した・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・彼女は私より二つ下の二十七歳、路地長屋の爪楊枝の職人の二階を借りた六畳一間ぐらしの貧乏な育ち方をして来たが、十三の歳母親が死んだ晩、通夜にやって来た親戚の者や階下の爪楊枝の職人や長屋の男たちが、その六畳の部屋に集って、嬉しい時も悲しい時もこ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様も無い、這って行く外はない。咽喉は熱して焦げるよう。寧そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若しやに覊・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷の客は耳を傾けつ。 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫