・・・それが米屋の店だと云う事は、一隅に積まれた米俵が、わずかに暗示を与えていた。そこへ前垂掛けの米屋の主人が、「お鍋や、お鍋や」と手を打ちながら、彼自身よりも背の高い、銀杏返しの下女を呼び出して来た。それから、――筋は話すにも足りない、一場の俄・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・「玉突場の一隅」を褒めたら、あれは左程自信がないと云ったのも恐らく其時だったろう。それから――後はみんな、忘れてしまった。が、兎に角、世間並の友人づき合いしかしなかった事は確である。それでいて、始終豊島の作品を注意して読んでいた所を見ると、・・・ 芥川竜之介 「豊島与志雄氏の事」
・・・仁右衛門は一本の鍬で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外の小作人は野良仕事に片をつけて、今は雪囲をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。少し高い所からは何処までも見渡される・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・有る――少くとも、我々をしてそういう風に疑わしめるような傾向が、現代の或る一隅に確に有ると私は思う。 三 性急な心は、目的を失った心である。この山の頂きからあの山の頂きに行かんとして、当然経ねばならぬところの路・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 桑を摘んでか茶を摘んでか、笊を抱えた男女三、四人、一隅の森から現われて済福寺の前へ降りてくる。 お千代は北の幸谷なる里方へ帰り、省作とおとよは湖畔の一旅亭に投宿したのである。 首を振ることもできないように、身にさし迫った苦しき・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・様子ではどうせ見込みのない女だと思っていても、どこか心の一隅から吉弥を可愛がってやれという命令がくだるようだ。どうともなるようになれ、自分は、どんな難局に当っても、消えることはなく、かえってそれだけの経験を積むのだと、初めから焼け気味のある・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 私は、いま、彼の描いた、田舎家の一隅を思い出さずにはいられません。それは、まだ年若い母親が、膝の上に乳呑児をのせて、何かあたゝかなものを匙ですくって、急がずに落ついた調子で子供に与えています。子供は、柔らかな長い衣物に包まれている。そ・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
もう昔となった。その頃、雑司ヶ谷の墓地を散歩した時分に、歩みを行路病者の墓の前にとゞめて、瞑想したのである。名も知れない人の小さな墓標が、夏草の繁った一隅に、朽ちかゝった頭を見せていた。あたりは、終日、しめっぽく、虫が細々とした声で鳴・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・その教授は自分の主裁している研究所の一隅に彼のための椅子を設けてくれた。そして彼は地味な研究の生活に入った。それと同時に信子との結婚生活が始まった。その結婚は行一の親や親族の意志が阻んでいたものだった。しかし結局、彼はそんな人びとから我が儘・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 地震ぞと叫ぶ声室の一隅より起こるや江川と呼ぶ少年真っ先に闥を排して駆けいでぬ。壁の落つる音ものすごく玉突き場の方にて起これり。ためらいいし人々一斉に駆けいでたり。室に残りしは二郎とわれと岡村のみ、岡村はわが手を堅く握りて立ち二郎は卓の・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫