・・・ この当事者と云う男は、平常私の所へ出入をする、日本橋辺のある出版書肆の若主人で、ふだんは用談さえすませてしまうと、そうそう帰ってしまうのですが、ちょうどその夜は日の暮からさっと一雨かかったので、始は雨止みを待つ心算ででも、いつになく腰・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出ようが、皆引掴んで頬張る気だか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・…… 風が、どっと吹いて、蓮根市の土間は廂下りに五月闇のように暗くなった。一雨来よう。組合わせた五百羅漢の腕が動いて、二人を抱込みそうである。 どうも話が及腰になる。二人でその形に、並んで立ってもらいたい。その形、……その姿で。・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 今しがた一時、大路が霞に包まれたようになって、洋傘はびしょびしょする……番傘には雫もしないで、俥の母衣は照々と艶を持つほど、颯と一雨掛った後で。 大空のどこか、吻と呼吸を吐く状に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上りそうに・・・ 泉鏡花 「妖術」
九月の始めであるのに、もはや十月の気候のように感ぜられた日もある。日々に、東京から来た客は帰って、温泉場には、派手な女の姿が見られなくなった。一雨毎に、冷気を増して寂びれるばかりである。 朝早く馬が、向いの宿屋の前に繋がれた。其の・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・安二郎から、はよ帰ってこいと迎えが来ると、お君は、また来まっさ、さいならと友子に言って、雨の中を帰って行った。一雨一雨冬に近づく秋の雨が、お君の傘の上を軽く敲いた。 織田作之助 「雨」
・・・ 年はとっても元気の好い先生の後に随いて、高瀬はやがてこの小楼を出、元来た谷間の道を町の方へ帰って行った。一雨ごとに山の上でも温暖く成って来た時で、いくらか湿った土には日があたっていた。「桜井先生、あの高輪の方にあった御宅はどう・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・その坂のところでも僅かな平地に日当り悪そうな三階建が立ちかかっていた。一雨で崩れそうなごろた石の石垣について曲り、道でないような土産屋の庇下を抜けると、一方は崖、一方に川の流れている処へ出た。川岸に数軒ひどい破屋があって、一軒では往来から手・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・東京で桜が散った後は、もう一雨で初夏の香が街頭に満つが、ここでは、こうやって今日一日降りくらす、明日晴れる、翌日は又雨で、次の日晴れる――ああ、何か一種異様の愛着をもって自然が推移するのだ。それ故、一月近くいて見ると、ここを去るのが変にのこ・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
出典:青空文庫