・・・ いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といってあの魔法使には、ピストルさえ役に立たないし、――」 遠藤がそんなことを考えていると、突然高い二階の窓から、ひらひら・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・敵打の初太刀は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親をも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目が立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。 松山へ来てから二月余り後、左近はその甲斐があって、ある日城下に近い海岸を・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀を持ってきて夜半ひそかに幾度となく胸にあててみた……ような日が二月も三月も続いた。・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児たち――その過失で、私が学校を止めるまでも、地じだんだを踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦の弛んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口の臭い、舌の粘々するお方がありましたら、ここに出しておきます、この芳口剤で一度漱をして下さい。」 と一口がぶりと遣って、悵然として仰反るばかりに星を仰ぎ、頭髪・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・が、万一自分が鴎外に先んじたらこの一場の約束の実現を遺言するはずだったが、鴎外が死んでしまったのでその希望も空しくなった。これは数年前、故和田雲邨翁が新収稀覯書の展覧を兼ねて少数知人を招宴した時の食卓での対談であった。これが鴎外と款語した最・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・私は彼女に何の魅力も感じないどころか、万一まかり間違ってこの女と情事めいた関係に陥ったら、今は初々しくはにかんでいるこの女もたちまち悍婦に変じて私の自由を奪うだろうという殺風景な観察すら下していた。「恋の奴」「恋の虜」などという語があるが、・・・ 織田作之助 「髪」
・・・それに、娘の方から寝台へ誘ったといっても、万一それが無邪気な気持からであったとすれば小沢の思い違いはきっと悔恨を伴うだろう。「君、こうしていて怖くない……?」 小沢はそうきいてみた。すると、娘は、「怖くないわ、あたし怒らないわ」・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・眠ること眠ること……が、もし万一此儘になったら……えい、関うもんかい! 臥ようとすると、蒼白い月光が隈なく羅を敷たように仮の寝所を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺処々燦たる照返を見するのは釦紐か武具・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・先方だって、まさか、そんな乱暴なことしやしないだろうがね、それは元々の契約というものは、君が万一家賃を払えない場合には造作を取上げるとか家を釘附けにするとかいうことになって居るんではないのだからね、相当の手続を要することなんで、そんな無法な・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫