・・・そもそも人生の事柄の繁多にして天地万物の多き、実に驚くべきことにて、その数幾千万なるべきや、これを知るべからず。ただその物名のみにても、ことごとくこれを知る者は世にあるべからず。然るをいわんや、その者の性質をや。ことごとくこれを教えんとする・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・無限の世界の上にただ ひとひら軽く ふわりと とどまって居るお前耳を澄せば 万物の声が聴える眼をきよめれば 宇宙があらわれる畏ろしい 而も 謙譲なお前紙と呼ばれてねんごろに 日を照り返すのだ。 ・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・そして朝から晩まで、一重に物懶く引延ばした雲の彼方から僅かに余光を洩す太陽の下に、まるで陰翳と云うものの無い万物を見るのは淋しゅうございます。五月の末に此方に来た時は、紫紅色の房々としたライラックがまだ蕾勝ちで、素朴な林檎の花盛りでございま・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 処が、只さえ万物を乾き、美しくなく見せる残暑の真昼の中で俥から下りると、自分は、殆ど、一種の極り悪さを感じる程、家は小さく、穢く異様に見えた。 武岳と云う医者の横と、葉茶屋の横との、三尺ばかりの曲り口も、如何にも貧弱に、裏店と云う・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・という恐怖が目覚めて、大いそぎで涙を拭く彼女は、激情の緩和された後の疲れた平穏さと、まだ何処にか遺っている苦しくない程度の憂鬱に浸って、優雅な蒼白い光りに包まれながら、無限の韻律に顫える万物の神秘に、過ぎ去った夢の影を追うのであった。・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 四辺の万物は体の薄黒色から次第次第に各々の色を取りもどして来、山の端があかるみ、人家の間から鶏共が勢よく「時」を作る。 向うの向うの山彦が、かすかに「コケコッコ――ッ」と応える。 目覚め、力づけられて活き出そうとする天地の中に・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
・・・龍江という女のことばをかりて、力をこめ「人間は何千年もかかって人間と自然界の万物といろいろな意味で区別しようとする方へばかり盲滅法に歩いて来た」から、そのひとりよがりが「魂をこんなにさびしくした」のだ。いつかまた人間は「もと来たこの道を逆に・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
・・・ ○夜が更けた中に起きて居ると、不思議に静的な万物が、彼女の心を嚇かす。 昼間は、多勢の人々の動作につれて、いつもみだされて居た家具調度の輪廓が、妙にくっきりとうき上って、しんと澱んだ深夜の空気の中に、かっきりとはめ込んだように・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
・・・が万物に充満していると説くところは、やや汎神論的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀仏や、キリシタンの説いていたデウスとの相似を思わせる。そういう点を考えると、この書が佐渡守・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・それはまことに正しい。万物の造り主である活ける神は、人の工と巧とをもって石から造られる神とは違う。それは手で造った殿堂に住まない。また人の手で犠牲をささげられることを要せない。それは生命の根拠である。人間の造り主である。何で人間の手を借りる・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫