・・・時と空間に関する吾人の狭いとらわれたごまかしの考えを改造し、過去未来を通ずる大千世界の万象を四元の座標軸の内に整然と排列し刻み込んだ事でなければならない。夢幻的な間に合わせの仮象を放逐して永遠な実在の中核を把握したと思われる事でなければなら・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・あらゆる暗黒の影が天地を離れて万象が一度に美しい光に照らされると共に、長く望んで得られなかった静穏の天国が来るのである。たとえこの静穏がもしや「死」の静穏であっても、あるいはむしろそうであったらこの美しさは数倍も、もっともっと美しいものでは・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・この考えを更に押し拡め直接筋力と比較する事の出来ぬ種々の引力斥力を考えて森羅万象を整然たる規律の下に整理するのが物理学の主な仕事の一つである。 力の考えから仕事の考えが導かれる。力の作用せる物が動けば力はその物に対して仕事をし、また仕事・・・ 寺田寅彦 「物質とエネルギー」
・・・誠に宇宙は無限大でその中に包含する万象の数は無限である。しかしてこれらは互いになんらかの交渉を有せぬものはない。風が吹いて桶屋が喜ぶという一場の戯談もあながち無意義な事ではない。厳密に云えば孤立系などというものは一つの抽象に過ぎないものであ・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・鏡が幾枚かあるがそれらに映る万象はみんなゆがみ捻れた形を見せる。物差のようなもので半分を赤く半分を白く塗り分けたものがある。私はこの簡単な物差ですべてのものを無雑作に可否のいずれかに決するように教えられて来たのであった。骨牌のような札の片側・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ 瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・けれどお七の心の中には賢もなく愚もなく善もなく悪もなく人間もなく世間もなく天地万象もなく、乃至思慮も分別もなくなって居る。ある者はただ一人の、神のような恋人とそれに附随して居る火のような恋とばかりなのである。もし世の中に或る者が存して居ると・・・ 正岡子規 「恋」
・・・笑うてかなたの障子を開けば大空に突っ立ちあがりし万仞の不尽、夕日に紅葉なす雲になぶられて見る見る万象と共に暮れかかるけしき到る処風雅の種なり。 はしなく浮世の用事思いいだされければ朝とくより乗合馬車の片隅にうずくまりて行くてを急ぎたる我・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・彼にとっては、おそらく万象が、量感にみち、色彩に輝き、声と動きとに満ちていたのだろう。此の世に満々たる美しさ、愛すべきものを、彼はたっぷりした資質に生れ合わせた男らしく、どれものこさず、ぶつかり合わず、調和そのものに歓喜を覚えるような概括で・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・中條百合子 富澤有為男様 侍史 一九二七年八月十九日〔京都市上京区小山堀池町一八 湯浅芳子宛 新町より〕 十九日午前十一時 もやあさん もう今頃は、万象館で、借浴衣におさまって居る時分でしょう・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
出典:青空文庫