・・・と記し、その右に大きな華表を画いて「三島神社」としてある。ずっと下の方に門を書いて、「正門」としてあるのは前田邸の正門であろう。 脚腰の立たない横に寝たきりの子規氏の頭脳の中にかなり明確に保存されていた根岸の地理の一つの映像としてこれも・・・ 寺田寅彦 「子規の追憶」
・・・四日目に日帰りで三島町まで見学に出かけた。三島駅でおりて見たが瓦が少し落ちた家があるくらいでたいした損害はないように見えた。平和な小春日がのどかに野を照らしていた。三島町へはいってもいっこう強震のあったらしい様子がないので不審に思っていると・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 七月十四日の朝東京駅発姫路行に乗って被害の様子を見に行った。 三島辺まで来ても一向どこにも強震などあったらしい様子は見えない。静岡が丸潰れになるほどなら三島あたりでもこれほど無事なはずがなさそうに思われた。 三島から青年団員が・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・それから熱海へ来て大湯の前の宿屋で四、五日滞在した後に、山駕籠を連ねて三島へ越えた。熱海滞在中漁船に乗って魚見崎の辺で魚を釣っていたら大きな海鰻がかかったこと、これを船上で煮て食わされたが気味が悪くて食われなかったようなことなどを夢のように・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ わたくしは或日蔵書を整理しながら、露伴先生の『言』中に収められた釣魚の紀行をよみ、また三島政行の『葛西志』を繙いた。これによって、わたくしはむかし小名木川の一支流が砂村を横断して、中川の下流に合していた事を知った。この支流は初め隠坊堀・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・ 槍立てゝ通る人なし花芒 三島の町に入れば小川に菜を洗う女のさまもややなまめきて見ゆ。 面白やどの橋からも秋の不二 三島神社に詣でて昔し千句の連歌ありしことなど思い出だせば有り難さ身に入みて神殿の前に跪きしばし祈念を・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・若い作家三島由紀夫の才能の豊かさ、するどさが一九四九年の概括の中にふれられていた。この能才な青年作家は、おそらくもうすでに、彼の才能のするどさ、みずぎわだったあざやかさというものは、いってみれば彼の才能の刃ですっぱり切ることのできる種類のも・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・自身のロマネスクなるものの源泉を、フランスの社交小説において、こんにち語ることのできる三島由紀夫も、おそらくは戦時下の早熟な少年期を、「抵抗」の必然のなかったころのフランス文学に、それが、どれほど歴史の頁からずれつつあるかを知らずに棲んだの・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
・・・その頃県令であった三島通庸に対する世評の一端もうかがわれる。熱情的な農民等が、明治維新によって目醒された自由平等の理想に鼓舞されて、延びよう延びようとする鋭気を、事々に「お上」の法によって制せられ、幻滅を感じるが如何うにかして新生活を開拓し・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
出典:青空文庫