・・・学生風なのはその頃マダ在学中の三木竹二で、兄弟して款待されたが、三木君は余り口を開かなかった。 鴎外はドチラかというとクロース・ハアテッドで、或る限界まで行くとそれから先きは厳として人を容れないという風があった。が、官僚気質の極めて・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・八番坑の途中に積んでいた塀も突きくずされた。三木脚の松ツァンは、ひょっくひょっくそこを通り越して息子がへしがれている洞窟へ這入って行った。支柱がはずされたあとは、くずれた岩や土が、柱が突きはずされると同時に、凄まじい音を立てゝなだれ落ちて来・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・僕だよ。三木、朝太郎。」「歴史的。」「そうさ。よく覚えているね。ま、はいりたまえ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなっているけれども、派手な仕事をしていた。劇作家である。多少、名前も知られていた。「おどろきだね。」「歴史・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・現在大楼ト称スル者今其ノ二三ヲ茲ニ叙スレバ即曰ク松葉楼曰ク甲子楼曰ク八幡楼、曰ク常盤楼、曰ク姿楼、曰ク三木楼等、維們最モ群ヲ出ヅ。漸次之ニ序グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵・・・ 永井荷風 「上野」
・・・宝暦以後、文学の中心が東都に移ってから、明和年代に南畝が出で、天明年代に京伝、文化文政に三馬、春水、天保に寺門静軒、幕末には魯文、維新後には服部撫松、三木愛花が現れ、明治廿年頃から紅葉山人が出た。以上の諸名家に次いで大正時代の市井狭斜の風俗・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ 風が南からあばれて来て、木にも花にも大きな雨のつぶを叩きつけ、丘の小さな栗の木からさへ、青いいがや小枝をむしってけたたましく笑って行く中で、この立派な三木のダァリヤの花は、しづかにからだをゆすりながら、かへっていつもよりかゞやいて見え・・・ 宮沢賢治 「まなづるとダァリヤ」
・・・ 入獄していた三木清氏が、解放の日を待たず死去された。戸坂潤氏も、死去された。三木清という哲学者は、西田幾多郎の哲学の解説者であり、戦争中は南方に出かけたりしていた。最も進歩的な階級の哲学である唯物弁証法の哲学に対して、日本で一時大流行・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・治郎氏は教育者としての見地から、今日における大学教育、教授の学的確信の失墜と学生間に瀰漫している、あしき客観主義、人間的意欲の喪失について論じ、ヒューマニズムの鍵として一種の唯心的な人格論を提唱した。三木清氏なども、ヒューマニズムへの情熱の・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・と「三木清における人間の研究」「たぬき退治」とは、それのかかれる精神の状況において連関がある。このような作品は、決して民主的な精神が率直に評価されている時代には書かれもしないしジャーナリズムが買いもしない。 文学に関心をもつすべての人々・・・ 宮本百合子 「しかし昔にはかえらない」
・・・ 大衆の中の進歩的要素と知識人が、懺悔的な悔恨的な感傷で大衆を一般化して考え、それに対し勝な昨今の弱点を餌として、三木清氏のような全体的の哲学が闊歩するのであるし、亀井貫一郎氏の速記録改竄問題をひきおこすのである。 ヒューマニズムは・・・ 宮本百合子 「全体主義への吟味」
出典:青空文庫