・・・同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或は神意に似た好悪である。実際又西施や竜陽君の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。 自由意志と宿命・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・夜鶯の優しい声も、すでに三越の旗の上から、蜜を滴すように聞え始めた。橄欖の花のにおいの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森律子嬢との舞踏が、いよいよ佳境に入ろうとしているらしい。…… が、おれはお君さん・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・坑外へ出るだけでも、八百尺をケージで昇り、――それは三越の六倍半だ――それから一町の広い横坑を歩かねばならない。 井村は女達の奥で鑿岩機を操っていた。タガネが、岩の肌にめりこんで孔を穿って行くに従って、石の粉末が、空気に吹き出されて、そ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・秋草さんのようなお店でも御覧なさいな、玉川の方の染物の工場だけは焼けずにあって、そっちの方へ移って行って、今では三越あたりへ品物を入れてると言いますよ――あの立派な呉服屋がですよ」 こう新七は言って、小竹の旦那として母と一緒に暮した時代・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・さいごに三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓ゆえに少し大胆になり、大箱を二つ求めた。黒眼がち、まじめそうな細面の女店員が、ちらと狐疑の皺を眉間に浮べた。いやな顔をしたのだ。嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、つくれなかった。薬品は、冷く手・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・袴や帯は、すぐにととのえる事も出来ますが、着物や襦袢はこれから柄を見たてて仕立てさせなければいけないのだし、と中畑さんが言うのにおっかぶせて、出来ますよ、出来ますよ、三越かどこかの大きい呉服屋にたのんでごらん、一昼夜で縫ってくれます、裁縫師・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・骨董品というほどでなくても、三越等の陳列棚で見る新出来の品などから比較して考えてみても、六円というのはおそらく多くの蒐集者にとっては安いかもしれない。しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いで・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 三 へリオトロープ よく晴れた秋の日の午後室町三越前で電車を待っていた。右手の方の空間で何かキラキラ光るものがあると思ってよく見ると、日本橋の南東側の河岸に聳え立つあるビルディングの壁面を方一尺くらいの光の板があ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 今から数年前三越かどこかで、風呂の湯の温度を見るための寒暖計を見付けて買って来て、宅の女中にその使用法を授けてみたのであるが、これは結局失敗に終った。先ず初めは、浴槽の水を掻き廻さないで、水面二、三寸のところへ寒暖計の球をさしこんで、・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・ 二 九官鳥の口まね せんだって三越の展覧会でいろいろの人語をあやつる九官鳥の一例を観察する機会を得た。この鳥が、たとえば「モシモシカメヨカメサンヨ」というのが、一応はいかにもそれらしく聞こえる。しかしよく聞いてみる・・・ 寺田寅彦 「疑問と空想」
出典:青空文庫