・・・まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話しているのを見た。見て行き過ぎると、甲が、「今あの店にいたのは大友君じゃアなか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 番小屋は、舟着場から、約一露里上流にあって建てられていた。夏は、対岸から、踵の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような薄い絹の靴下や、竹の骨を割った日傘が、舟で内密で持ちこまれてくる。ここは、流れが最も緩慢であった。そし・・・ 黒島伝治 「国境」
その一 ここは甲州の笛吹川の上流、東山梨の釜和原という村で、戸数もいくらも無い淋しいところである。背後は一帯の山つづきで、ちょうどその峰通りは西山梨との郡堺になっているほどであるから、もちろん樵夫や猟師でさえ踏・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋新大橋より上流の方でも釣ったものです。それですから善女が功徳のために地蔵尊の御影を刷った小紙片を両国橋の上からハラハラと・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・少し取り乱しているが、上流の奥さんらしく見える人が変な事を言うと思ったのである。書記等は多分これはどこかから逃げて来た女気違だろうと思った。 女房は是非縛って貰いたいと云って、相手を殺したと云う場所を精しく話した。 それから人を遣っ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・「あなた、これは木曾川の上流ですよ。」 僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・立居振舞は立派な上流の婦人であって、その底には人を馬鹿にした、大胆な行を隠している。ピアノを上手に弾いて、クプレエを歌う。その時は周囲が知らず識らずの間に浮かれ出してしまう。先ずこんなわけで、いつの間にかポルジイは真面目にドリスに結婚を申し・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
去年の夏信州沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 近ごろあるレストランで友人と食事をしていたら隣の食卓にインドの上流婦人らしい客が二人いて、二人ともその額の中央に紅の斑点を印していた。同じ紅色でも前記の素足の爪紅に比べるとこのほうは美しく典雅に見られた。近年日本の紅がインドへ輸出され・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 一通遊泳術の免許を取ってしまった後は全く教師の監督を離れるので、朝早く自分たちは蘆のかげなる稽古場に衣服を脱ぎ捨て肌襦袢のような短い水着一枚になって大川筋をば汐の流に任して上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫