・・・実はこういうように原稿紙へノートが取ってありますから、時々これを見ながら進行すれば順序もよく整い遺漏も少なく、大変都合が好いのですけれども、そんな手温い事をしていてはとても諸君がおとなしく聴いていて下さるまいと思うから、ところどころ――では・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、このくらいなことは勘忍して下さるでしょう」「さア事だ。一人でさえ持て余しそうだのに、二人まで大敵を引き受けてたまるもんか。平田、君が一方を防ぐんだ。吉里さんの方は僕が引き受けた・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ あなたがわたくしの事を度々思い出して下さるだろう、そしてそれを思い出すのを楽しみにして下さるだろうなんぞとは、わたくしは一度も思った事はございません。あなたはあんまり御用がおありになって、あんまり人に崇拝せられていらっしゃるのですもの・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・その手紙には非道く悲しい事も書かず、恨がましい事も書かず、つい貴方のお心にわたしの心がよう分って、貴方が今一度わたしを可哀く思って少しばかり泣いて下さるように書きたいと存じました。しかしわたしはとうとうその手紙を書かずにしまいました。そんな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・をまなび○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じいやしむ者ありされどもさすが故園情に堪えずたまたま親里に帰省するあだ者なるべし浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑い下さるべく候実は愚老懐旧のやるかたなきよ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・七、北十字とプリオシン海岸「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。 ジョバンニは、(ああ、そうだ、ぼくのおっかさ・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・お気の毒な政子さんには、自分の出来る丈の親切をし、お友達のすべてに、よい仲間となれるように――芳子さんは先生が教えて下さる正しい事は、一つ残さず自分が行って見たいと思っているのです。 それ故、先生が、背中を丸くしてお席に就いていてはいけ・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・「老先生が一寸お出下さるようにと仰ゃいますが」「そうか」 と云って、花房は直ぐに書生と一しょに広間に出た。 春慶塗の、楕円形をしている卓の向うに、翁はにこにこした顔をして、椅子に倚り掛かっていたが、花房に「あの病人を御覧」と・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・どうしてもわたくしのどこをあなたが好いて下さるか分からなかったのです。そこでわたくしは必死になってあの写真と競争してみる気になったのです。 女。それも分かっていましたの。 男。そこで服を一番いい服屋で拵えさせる。髪をちぢらせる。どう・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・おもえばあのように陰気で冷淡そうな方が僕のようなものを可愛がって下さるのは、不思議なようですが、ほんとうにそうなんでした。よく僕は奥さまの仰しゃる通りに、頭を胸へよせ掛けて、いつまでか抱れていると、ジット顔を見つめていながら色々仰ったその言・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫