・・・いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている」 婆さんは呆気にとられたのでしょう。暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。「お前は憐れな父親の手から、この女・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとんとさせて火傷の方の半面を平手で撫でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を下して、今までの慌てかたにも似ず悠々と煙草入を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・一史家が鉄のごとき断案を下して、「文明は保守的なり」といったのは、よく這般のいわゆる文明を冷評しつくして、ほとんど余地を残さぬ。 予は今ここに文明の意義と特質を論議せむとする者ではないが、もし叙上のごとき状態をもって真の文明と称するもの・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・プラットフォームも婚礼に出迎の人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリと錠を下しました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温柔でおいでなさる、心弱い女性・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・新裁下しのセルの単衣に大巾縮緬の兵児帯をグルグル巻きつけたこの頃のYの服装は玄関番の書生としては分に過ぎていた。奥さんから貰ったと自慢そうに見せた繍いつぶしの紙入も書生にくれる品じゃない。疑えば疑われる事もまるきりないじゃなかったが、あのモ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮るべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。その一例を挙げますれば日本国・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・公園の中へはいり、川の岸に腰を下して煙草を吸いました。川の向う正面はちょうど北浜三丁目と二丁目の中ほどのあたりの、中華料理屋の裏側に当っていて、明けはなした地下室の料理場がほとんど川の水とすれすれでした。その料理場では鈍い電灯の光を浴びた裸・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・病人は飛び付くようにして水でそれを呑み下しました。然し最早や苦痛は少しも楽に成りません。病人は「如何したら良いんでしょう」と私に相談です。私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・喬はそこに腰を下した。「人が通る、車が通る」と思った。また「街では自分は苦しい」と思った。 川向うの道を徒歩や車が通っていた。川添の公設市場。タールの樽が積んである小屋。空地では家を建てるのか人びとが働いていた。 川上からは・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・これは面白ろい、彼奴を写してやろうと、自分はそのまま其処に腰を下して、志村その人の写生に取りかかった。それでも感心なことには、画板に向うと最早志村もいまいましい奴など思う心は消えて書く方に全く心を奪られてしまった。 彼は頭を上げては水車・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
出典:青空文庫