・・・ ドイツの下宿屋で、室に備え付けの洗面鉢を過ってこわしたある日本人が、主婦に対して色々詫言を云うのを、主婦の方では極めて機嫌よく「いや何でもありません、ビッテ、シェーン」を繰返していた。そうしてその人が永い滞在の後に、なつかしい想いを残・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ ふみ江の良人の家は在方であったが、学校へ通っている良人の青木は、町に下宿していたけれど、ふみ江は青木の親たちの方にいることになっていた。「子供はどうなんだ。脚が悪いそうじゃないか」「え、それで……」 すると姉がすぐ引き取っ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・そして入口でせわしく下駄をつっかけると、すぐ近所の自分の下宿へ、庭づたいにかけだしていった。「――理想はよろしい。アナでも、ボルでもけっこう。だからわしはポスターでも、会場費でも何でも提供している。しかしだね、諸君は学生だ、いいですか、・・・ 徳永直 「白い道」
・・・娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあった。当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処では・・・ 永井荷風 「上野」
・・・余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子の住んでおったチェルシーなのである。 カーライルはおらぬ。演説者も死んだであろう。しかしチェルシーは以前のご・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・十四五年前の事であるが、余は猿楽町の下宿にいた頃に同宿の友達が急病で死んでしまった。東京には其男の親類というものが無いので、我々朋友が集まって葬ってやった事がある。其時にも棺をつめるのに何を用いるかと聞いてみたら、東京では普通に樒の葉なども・・・ 正岡子規 「死後」
・・・が、彼女は、自分を制して到頭罐をあけた。下宿している女学生の夕飯は皆この通りではないか、意気地なし! 三畳から婆さんが、「いかがです御汁、よろしかったらおかえいたしましょう」と声をかけてよこした。陽子は膳の飯を辛うじて流し込んだ。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 程なくF君は帰って来て、鳥町に下宿した。そしてこれまでのようにドイツ語の教師をしていた。夏の日に私は一度君を尋ねて、ラムネを馳走せられたことがある。 年の暮に鍛冶町の家主が急に家賃を上げたので、私は京町へ引き越した。いとぐるまの音・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだから、どこの下宿屋からも抛り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さそうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいです。」「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 己は静かな所で為事をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前であった。己の部屋の窓を叩いたものがある。「誰か」と云って、その這入った男を見・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫