・・・日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持っている。わたくしは専これらの感慨を現すために『父の恩』と題する小説をかきかけたが、これさえややもすれば筆を拘束される事が多かったので、中途にして稿を絶った。わたくしはふと江戸の戯作者ま・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・できるだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、できるだけ気儘に勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象ができるのであります。・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・けれども一度耳についたこの不可思議な音は、それが続いて自分の鼓膜に訴える限り、妙に神経に祟って、どうしても忘れる訳に行かなかった。あたりは森として静かである。この棟に不自由な身を託した患者は申し合せたように黙っている。寝ているのか、考えてい・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・人が聞くと不可思議な盾だと云う。霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来に渉って吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只幻影の盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。 盾の形は望の夜の月の如く丸い。鋼で饅頭・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・その不可思議な独特の叡智によつて、彼等はボードレエルを嗅ぎつけ、ドストイェフスキイを嗅ぎつけ、象徴派の詩を嗅ぎつけ、自然主義の文学を嗅ぎつけた。しかし流石にその智慧だけでは、ニイチェを嗅ぎつけることが出来ないのである。 ニイチェはそ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・だがしかし、今もなお私の記憶に残っているものは、あの不可思議な人外の町。窓にも、軒にも、往来にも、猫の姿がありありと映像していた、あの奇怪な猫町の光景である。私の生きた知覚は、既に十数年を経た今日でさえも、なおその恐ろしい印象を再現して、ま・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・ 白蝋の様な頬の色、思い深い紅に閉された小さい唇の上に表れた死の姿は実に不可思議なものに見える。今まじまじと目の前に表れ出た頬のない美くしさ、冷やかさを持って居る死は私の心にまた謎の種をおろして行く。今まで仕様事なしに私の貧しい知識の知・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・雑念はすべて誤りという不可思議な中で、しきりに人は思わねばならぬ。思いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼろしのごとく闇から来り、闇に没してゆく鵜飼の灯の燃え流れる瞬間の美しさ、儚なさの通過する舞台で、私らの舟も舷舷相摩すきしみを立て・・・ 横光利一 「鵜飼」
出典:青空文庫