・・・ある朝、妓が林檎をむいてくれるのを見て、胸が温った。無器用な彼は林檎一つむけず、そんな妓の姿に涙が出るほど感心し、またいじらしくもあり、年期明けたら夫婦になろうと簡単に約束した。 こんなことではいつになったら母親を迎えに行けるだろうかと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・新吉はふと不安になったが、針が折れれば折れた時のことだと、不器用な手つきで針の先を当てた。そして顔を真赤にして唇を尖らせながら、ぐっと押し込んでいると、何か悲しくなった。こんなにまでして仕事をしなければならない自分が可哀想になった。しかし、・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ その時襖がひらいて、マダムの妹がすっとはいって来た。無器用にお茶を置くと、黙々と固い姿勢のまま出て行った。 紫の銘仙を寒そうに着たその後姿が襖の向うに消えた時、ふと私は、書くとすればあの妹……と思いながら、焼跡を吹き渡って来て硝子・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ しかし、ヒンブルの加代は掏摸はやらない。不器用で掏摸には向かないのだ。 彼女の専門は、映画館やレヴュー小屋へ出入するおとなしそうな女学生や中学生をつかまえて、ゆする一手だ。 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・しかし豚は棒を持った男が近づいて来ると、それまでおとなしくしていたやつまでが、急に頭を無器用に振ってはねとびだした。二人はいつの間にか腹立て怒って大切なズボンやワイシャツが汗と土で汚れるのも忘れて、無暗に豚をぶん殴りだした。 豚は呻き騒・・・ 黒島伝治 「豚群」
皆さん。浅学不才な私如き者が、皆さんから一場の講演をせよとの御求めを受けましたのは、実に私の光栄とするところでござります。しかし私は至って無器用な者でありまして、有益でもあり、かつ興味もあるというような、気のきいた事を提出・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・短い言葉で、不器用な言い廻しで、それでもお父さんの旅の悲しみなどがよく出ていますよ。姉さんにもああいうことがあったら、そんなに苦しまずにも済むだろうかと思うんですが」「俺は歌は読まん。そのかわり若い時分からお父さんの側で、毎日のようにい・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・嘉七の不器用な冗談に笑ったのではなく、映画のつまらぬギャグに笑い興じていたのだ。 このひとは、映画を見ていて幸福になれるつつましい、いい女だ。このひとを、ころしてはいけない。こんなひとが死ぬなんて、間違いだ。「死ぬの、よさないか?」・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃担っている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏でもって切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・、結婚したばかりの頃、私にも、その、覚えがあったので、蛾の形のあざをちらと見て、はっとして、と同時に夫も、私に気づかれたのを知ったらしく、どぎまぎして、肩にかけている濡れ手拭いの端で、そのかまれた跡を不器用におおいかくし、はじめからその蛾の・・・ 太宰治 「おさん」
出典:青空文庫