・・・が、取次ぎの小厮に聞けば、主人は不在だということです。翁は主人に会わないにしろ、もう一度あの秋山図を見せてもらうように頼みました。しかし何度頼んでみても、小厮は主人の留守を楯に、頑として奥へ通しません。いや、しまいには門を鎖したまま、返事さ・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・弟が、今頃行っても医者は往診で不在だから駄目だと言っても「さがして呉れ――自転車で――処方箋を貰って来て呉れ――」と、止切れ止切れにせがみました。弟はやむを得ず「ようし」と引受けて立上りましたが、直ぐ台所へ廻って如何したらよいかと私に相談し・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯だ女中とその少女と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女は身体の具合が少し悪いと言って鬱いで、奥の間に独、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺に腰をかけた・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・大降りにならぬうち、帰ろうと言い出しますと、お幸と武の女房が止めて帰しません、武は不在でございましたが、今に帰るだろうから帰ったら橋まで送らすからと申しますのでしばらくぐずぐずしていますと、武が帰って参りました。どこで飲んだかだいぶ酔ってい・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 午後二時ごろで、たいがいの客は実際不在であるから家内しんとしてきわめて静かである。中庭の青桐の若葉の影が拭きぬいた廊下に映ってぴかぴか光っている。 北の八番の唐紙をすっとあけると中に二人。一人は主人の大森亀之助。一人は正午前から来・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・小林多喜二の「不在地主」には、労働者と農民の提携のほう芽が、文学的に取扱われている。その点においては、これは最初の試みがなされているということが出来る。平林たい子、金子洋文にも、それ/″\信州、秋田の農民を描いて、は握のたしかさを示したもの・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪れ、その時、長兄は不在であったが、次兄の英治さんや嫂や甥や姪、また祖母、母、みんなに逢う事が出来て、当時六十九歳の母は、ひどく老衰していて、歩く足もとさえ危かしく見えたけれども、決・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ 夕方、久し振りで今さんも、ステッキを振りながらおいで下さったが、主人が不在なので、じつにお気の毒に思った。本当に、三鷹のこんな奥まで、わざわざおいで下さるのに、主人が不在なので、またそのままお帰りにならなければならないのだ。お帰りの途・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・私が、当前、山の上を散歩していたということは、私の不在証明にさえなるかも知れぬ。このような滑稽な錯覚が現実にままあるらしい。きこりは私を忘れて、山のきこり仲間にふれ歩いた。それから雪の死体を海から引きあげるのに三時間以上をついやした。断崖の・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ 訪ねる人は不在であった。 兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほ・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫