・・・そうかと思うと私の耳は不意に音楽を離れて、息を凝らして聴き入っている会場の空気に触れたりした。よくあることではじめは気にならなかったが、プログラムが終わりに近づいてゆくにつれてそれはだんだん顕著になって来た。明らかに今夜は変だと私は思った。・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 文公は不意に起こされたので、驚いて起き上がりかけたのを弁公が止めたので、また寝て、その言うことを聞いてただうなずいた。 あまり当てにならない留守番だから、雨戸を引きよせて親子は出て行った。文公は留守居と言われたのですぐ起きていたい・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・「おや、こいつはまた偽札じゃないか。」不意に松本がびっくりして、割れるように叫んだ。「何だ、何だ!」「こいつはまた偽札だ。――本当に偽札だ!」 その声は街へ遊びに行くのがおじゃんになったのを悲しむように絶望的だった。「ど・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・身体は其儘、不意に出あっても、心中は早くも立直ったのだ。自分の方では何とすることもせず、先方の出を見るのみに其瞬間は埋められたのであった。然し先方は何のこだわりも無く、身を此方へ近づけると同時に、何の言葉も無く手をさしのべて、男の手を探り取・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・お君は口の中でくりかえして見た……我等の前衛を奪カンせよ。――日本中の工場がみんなその為にストライキを起したら、そうだ、その通りだと思った。お君は不意に走り出した。何かジッとしていられない気持になったのだ。皆の所へ行かなければならないと思っ・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・前言うまいあなたの安全器を据えつけ発火の予防も施しありしに疵もつ足は冬吉が帰りて後一層目に立ち小露が先月からのお約束と出た跡尾花屋からかかりしを冬吉は断り発音はモシの二字をもって俊雄に向い白状なされと不意の糺弾俊雄はぎょッとしたれど横へそら・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・どういうことからこんなに不意に伴れて行かれたのであろうか。小母さんのところに一と月もいたのはどうしたゆえであろうかと、いろんなことが一度に考えられて、物足りないような、いらだたしい心持がする。船から隣村の岸までは、目で見てもここからこの前の・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私が茶の間で夕刊を読んでいたら、不意にあなたのお名前が放送せられ、つづいてあなたのお声が。私には、他人の声のような気が致しました。なんという不潔に濁った声でしょう。いやな、お人だと思いました。はっきり、あなたという男を、遠くから批判出来まし・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・それは不意に我身の上に授けられた、夢物語めいた幸福が、遠からず消え失せてしまって、跡には銀行のいてもいなくても好い小役人が残ると云うことである。少くも半年間は、いてもいなくても好いと云うことを、立派に上役から証明せられているのである。この恐・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ときどき汀の石の上や橋の上に降り立って尻尾を振動させている。不意に飛び立って水面をすれすれに飛びながら何かしら啄んでは空中に飛び上がる。水面を掠めてとぶ時に、あの長い尾の尖端が水面を撫でて波紋を立てて行く。それが一種の水平舵のような役目をす・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫