・・・すると兄の眼の色が、急に無気味なほど険しくなった。「好いやい。」 兄はそう云うより早く、気違いのように母を撲とうとした。が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。―― 母がその時どんな顔をしていたか・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・のみならず半之丞は上さんの言葉にうんだともつぶれたとも返事をしない、ただ薄暗い湯気の中にまっ赤になった顔だけ露わしている、それも瞬き一つせずにじっと屋根裏の電燈を眺めていたと言うのですから、無気味だったのに違いありません。上さんはそのために・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ その声がまだ消えない内に、ニスののする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西が、無気味なほど静にはいって来た。「手紙が参りました。」 黙って頷いた陳の顔には、その上今西に一言も、口を開かせない不機嫌さがあった。今西は冷かに目・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・白い腱と赤い肉とが無気味な縞となってそこに曝らされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。 それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は良人の心持ちが分・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ ベソを掻いて、顔を見て、「御免なさい。御免なさい。父さんに言っては可厭だよ。」 と、あわれみを乞いつつ言った。 不気味に凄い、魔の小路だというのに、婦が一人で、湯帰りの捷径を怪んでは不可い。……実はこの小母さんだから通った・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・腐れた肺が呼吸に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾から雫が垂れるから、骨を絞る響であろう――傘の古骨が風に軋むように、啾々と不気味に聞こえる。「しいッ、」「やあ、」 しッ、しッ、しッ。 曳声を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒を・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚の真黒な筋のごとく、二ヶ処に洞穴をふんで、冷く、不気味に突立っていたのである。 ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ―― が、こうした事に、もの馴れない、学芸部・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・そして、さらに、なんとなく無気味に感じたので、がまがえるからも遠くはなれて飛び去ったのです。 彼女は、庭のすみにあって、日当たりのいいからたちの木を撰びました。そこには、鋭い無数の刺があって、外からの敵を守ってくれるであろうし、そのやわ・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・浅間山が不気味な黒さで横たわり、その形がみるみるはっきりと泛びあがって来る。間もなく夜が明ける。 人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂け・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ すると、女の唇が不気味にふるえた。そして大粒の泪が蒼黝い皮膚を汚して落ちて来た。ほんとうに泣き出してしまったのだ。 私は頗る閉口した。どういう風に慰めるべきか、ほとほと思案に余った。 女は袂から器用に手巾をとりだして、そしてま・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫