・・・あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてや・・・ 太宰治 「古典風」
・・・いのちともしきわれをよぶ 足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。「折ったな。」 その声を、つい頭の上で、はっきり聞いた。私は幹にすがって立ちあがり、うつろな眼で声のあ・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。あれは、よかった。なんという監督の作品だか、一切わからないけれども、あの作品の監督には、今でもお礼を言いたい気持がある。 私は、映画を、ばかにしているのかも知・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・しらふで前後不覚で、そうしてお隣りの奥さんと井戸端で世間話なんかしているのだからね。実に不思議だ。たしかに、女類同志の会話には、僕たち男類に到底わからない、まるっきり違った別の意味がふくまっているのだ。僕たち男類が聞いて、およそ世につまらな・・・ 太宰治 「女類」
・・・ 私は彼がこの調子で、ぐいぐいウイスキイを飲み、いまに大酔いを発し、乱暴を働かないまでも、前後不覚になっては、始末に困ると思い、少し彼を落ちつかせる目的を以て、梨の皮などをむいてすすめたのである。 しかし、彼は酔いを覚ます事は好まな・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 私は不覚にも、鏡の中で少女に笑いかけてしまった。少女は、少しも笑わず、それを見て、すらと立って、カアテンのかげの応接間のほうへゆっくり歩いて行った。なんの表情もなかった。私は再び白痴を感じた。けれども私は満足だった。ひとり可愛い知り合・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ 私は自分が浮き浮きとたくさんの花の名をかぞえあげたことに腹を立てていた。不覚だ! それきり、ふっと一ことも口をきかなかった。帰りしなに、細君の背後にじっと坐っている小さな女の子へ、「遊びにいらっしゃい。」と言ってやった。娘は、「は・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・ 三浦君は、ことしの十二月、大学を卒業して、すぐに故郷へ帰り徴兵検査を受けたが、極度の近視眼のために、不覚にも丙種であった。すると、下吉田の妹娘から、なぐさめの手紙が来た。あまり文章が、うまくなかったそうである。センチメンタル過ぎて、あ・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・酔いどれたならば足がふらつき思わぬ不覚をとることもあろう。三年経った。大社のお祭りが三度来て、三度すぎた。修行がおわった。次郎兵衛の風貌はいよいよどっしりとして鈍重になった。首を左か右へねじむけてしまうのにさえ一分間かかった。 肉親は血・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・お城へ夢中で逃げて来て、こんな上等の着物を着せられ、こんな柔かい蒲団に寝かされ、前後不覚に眠ってしまって、さて醒めて落ちついて考えてみると、あたしは、こんな身分じゃ無かった、あたしは卑しい魔法使いの娘だったという事が、はっきり判って、それで・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫