・・・ こんなことを考えていると映画の批評などを書くということが世にもはかないつまらない仕事のように思われて来る。しかしまた考え直してみると自分などの毎日のすべての仕事が結局みんな同じようなはかないものになってしまうのである。 しかし、こ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・かく観ずる裡に、人にも世にも振り棄てられたる時の慰藉はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆えされて、踵を支うるに一塵だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎も恐れず、世を憚りの関一重あなたへ越・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あのくらい単純な内容で泣ける人が今の世にもあるかと思ったらありがたかった。我々はもっとずっと、擦れてるから始末が悪い。と云ってあすこがつまらないんじゃない。かなり面白かった。けれどもその面白味はあの初菊という女の胴や手が蛇のように三味線につ・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・かつて私の或る知人が、シベリヤ鉄道の旅行について話したことは、あの満目荒寥たる無人の曠野を、汽車で幾日も幾日も走った後、漸く停車した沿線の一小駅が、世にも賑わしく繁華な都会に見えるということだった。私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間に火を附けて呉れんなど、世にもあられぬことを思うて独り煩悶するが・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・見る見るからだに火が燃え出し、世にも悲しく叫びながら、落ちて参ったのでございます。 弾丸がまた昇って次の雁の胸をつらぬきました。それでもどの雁も、遁げはいたしませんでした。 却って泣き叫びながらも、落ちて来る雁に随いました。 第・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・故意と仕込むのは、植木に盆栽と云う変種を作って悦ぶ人間のわるい小細工としか思われない。世にも胸のわるいのは、欧州婦人がおもちゃにする、小さな、ひよわい、骸骨に手入れの届いた鞣皮を張りつけたような Pocket dog 或は Sleeve d・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・に浮く昼も夜も風の音のみ我心を おとなひてあれば只うるみ勝帰りたや都の家の恋しやと たゞひたぶるに思ひ居るかな春おそきわびしき村に来て見れば 桜と小麦の世にもあるかな歌唄ひ物を書けども・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・日向で青島へ廻った日、鹿児島で一泊したその翌日、特に快晴で、私達は、世にも明るい日向、薩摩の風光を愛すことが出来た。五月九日という日づけにだまされ、二人とも袷の装であった。鹿児島市中では、樟の若葉の下を白絣の浴衣がけの老人が通るという夏景色・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・この色の青いやせ男が、その人の情というものが全く欠けているほどの、世にもまれな悪人であろうか。どうもそうは思われない。ひょっと気でも狂っているのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つつじつまの合わぬことばや挙動がない。この男はどうした・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫