・・・そしてその時からもう世の常の処女ではなくなっていた。彼女はその時の回想に心を上ずらせながら、その時泣いたように激しく泣いていた。 ふと「クララ」と耳近く囁くアグネスの声に驚かされてクララは顔を上げた。空想の中に描かれていたアプスの淋しさ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・その間にあって、――毀誉褒貶は世の常だから覚悟の前だが――かの「デカダン論」出版のために、生活の一部を助けている教師の職を、妻の聴いて来た通り、やめられるなら、早速また一苦労がふえるという考えが、強く僕の心に刻まれた。 しかし、その時は・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・このころよりかれが挙動に怪しき節多くなり増さりぬ、元よりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十五歳といえど子もなく兄弟もなし。 予は闥を排して内に入りぬ。 三十余りの人々長方形の卓を囲みて居並びしがみな眼を二郎の方にのみ注げば、わ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 戯れにいろは教うればいろはを覚え、戯れに読本教うればその一節二節を暗誦し、小供らの歌聞きてまた歌い、笑い語り戯れて、世の常の子と変わらざりき。げに変わらずみえたり。生国を紀州なりと童のいうがままに「紀州」と呼びなされて、はては佐伯町附・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 家庭は世の常を越えて厳重でありましたが、確にこれは私の益になったに相違無いです。別に家庭の教育などという論は無い頃のことでしたが、先ず毎日々々復習を為し了らなければ遊べぬということと、朝は神仏祖先に対して為るだけの事を必ず為る、また朝・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・特に世の常の巌の色はただ一ト色にしておかしからぬに、ここのは都ての黒きが中に白くして赤き流れ斑の入りて彩色をなせる、いとおもしろし。憾むらくは橋立川のやや遠くして一望の中に水なきため、かほどの巌をして一トしおの栄あらしむること能わず、惜みて・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・君の亡くされたのは君の初子であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くなってしまうであろう。己はいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。何だかこの往来、この建物の周囲には、この世に生れてから味わずにしまった愉快・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫