・・・ 曖昧に苦笑してると、男はまるで羽搏くような恰好に、しきりに両手をうしろへ泳がせながら、「失礼でっけど、あんた昨夜おそうにお着きにならはった方と違いまっか」 と、訊いた。「はあ、そうです」 何故か、私は赧くなった。「・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ ギイギイと鎖の軋る音してさながら大濤の揺れるように揺れているその上を、彼女は自在に、ツツツ、ツツツとすり足して、腰と両手に調子を取りながら、何のあぶな気もなく微笑しながら乗り廻している。実際驚異すべき鮮かさである。私にはたんにそれが女学校・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ 子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつっ伏せになって両手で墻を作りながら「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と言いながら弟をだました。両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上の暗黒のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 母上との物語をおえて二階なるわが室にかえり、そのまま身を椅子に投げ、両手もてわが顔をおおいぬ。この時こころの疲れ、身の疲れを一時に覚えて底なき穴に落ちゆく心地し、しばしは何事をも忘れたり。夢現の境を漂うて夜のふくるをも知らざりしが、ふ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・後藤新平は母の棺の前に羽織、袴で端座して、弔客のあるごとに、両手をついて、「母上様誰それがきてくれました」と報じて、涙をこぼしたということだ。 母親が子どもを薫陶した例は昔から枚挙にいとまない。 孟子の母の断機、三遷の話、源信僧都の・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点に集中した。 老人はびく/\動いた。 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 両手で頬杖しながら匍匐臥にまだ臥たる主人、懶惰にも眼ばかり動かして一眼見しが、身体はなお毫も動かさず、「日瓢さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。「・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・黒いゲートルを巻いた、ゴム足袋の看守が両手を後にまわして、その側をブラ/\しながら何か話しかけていた……。夕陽が向う側の監獄の壁を赤く染めて、手前の庭の半分に、煉瓦建の影を斜めに落していた。――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来てい・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・得れば好かれぬまでも嫌われるはずはござらぬこれすなわち女受けの秘訣色師たる者の具備すべき必要条件法制局の裁決に徴して明らかでござるとどこで聞いたか氏も分らぬ色道じまんを俊雄は心底歎服し満腹し小春お夏を両手の花と絵入新聞の標題を極め込んだれど・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ それを聞いてから、私は両手に持てるだけ持っていた袋包みをどっかとお徳の前に置いた。「きょうはみんなの三時にと思って、林檎を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」「旦那さんのように、いろいろなものを買って提げていらっしゃるかた・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫