・・・月は中天に昇っている。恰度前年お正と共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓の上へのぼりながら、途々「縁」に就て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。 そして構造の大きな農家・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・月は中天に懸ていて、南から北へと通った此町を隈なく照らして、森としている。人の住んで居ない町かと思われる程で、少女がの軒燈の前まで来た時、其二階で赤児の泣声が微かにした。少女は頭を上げてちょっと見上げたが、其儘すぐ一軒置た隣家の二階に目を注・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・また、あそこのベンチに腰かけている白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、見ろ、あいつがここへ現われたら、もはや中天に、臭く黄色い糞の竜巻が現われているじゃないか。 私は彼の饒舌をうつつに聞いていた。私は別なものを見つめていたのである。・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・虹中天に懸り宮溝の垂楊油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。 巴里にては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬に赴く時、驟雨濺来って紅囲粉・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・ 庭に出、空を仰ぐと、深い一片の雲もない天に、月と星とが、小さく、はっきり見える。中天に昇って居る故か月は、不思議に小さく近く見えた。何か見えない糸で天から吊るされ、激しい風が吹き渡る毎に、吊下げられた星や月も揺れまたたくように思える。・・・ 宮本百合子 「一九二三年夏」
・・・ ふだん街の面をぎらつかせているネオンライトや装飾燈が無く、中天から月の明りを受けて水の底に沈んだような街筋を行くと、思いもかけない家と家との庇合いから黒く物干が聳えて見えたり、いつもとは違う生活の印象的な風景である。とある坂の途中に近・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
・・・新聞紙の伝うる所に依れば、先ず博文館の太陽が中天に君臨して、樗牛が海内文学の柄を把って居る。文士の恒の言に、樗牛は我に問題を与うるものだと云って、嘖々乎として称して已まないらしい。樗牛また矜高自ら持して、我が説く所は美学上の創見なりなどと曰・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫