・・・通称丸山軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後に京都の丸山に転じたので、軽焼もまた他の文明と同じく長崎から次第に東漸したらしい。尤も長崎から上方に来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから天和貞享頃には最う上・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰ってぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時く凝然と品川の沖の空を眺めていました。『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電のように僕の心中・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・私も小学校の課程は、北村君と同じ泰明小学校で修めた者だが、北村君よりはその弟の丸山古香君の方を、その時代にはよく覚えている。北村君は方々の私立学校を経て、今の早稲田大学が専門学校と云った時代の、政治科にいた事もあったと聞いた。当時の青年はこ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ それを語るためには、ちょっと、私と丸山定夫君との交友に就いて説明して置く必要がある。 太平洋戦争のかなりすすんだ、あれは初秋の頃であったか、丸山定夫君から、次のような意味のおたよりをいただいた。 ぜひいちど訪問したいが、よろし・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・風にゆれる野の草がさながら炎のように揺れて前方の小高い丘の丸山のほうへなびいて行く、その行く手の空には一団の綿雲が隆々と勢いよく盛り上がっている。あたかも沸き上がり燃え上がる大地の精気が空へ空へと集注して天上ワルハラの殿堂に流れ込んでいるよ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・一九四九年に、この近代擬装エナメルの色どりはげしいギラギラした流れの勢が、どのように猛烈であったかについて『人間』十二月号の丸山真男・高見順対談の中で、高見順が次のように云っている。「芸術家の方も自重しませんと……。終戦後のわれわれの恥・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利嘉左衛門が組の足軽丸山三之丞が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。 かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 二十五日、法科大学の学生なる丸山という人訪いく。米子の滝の勝を語りて、ここへ来し途なる須坂より遠からずと教えらる。滝の話は、かねても聞きしことなれど、往て観んとおもう心切なり。 二十六日、天陰りて霧あり。きょうは米子に往かんと、か・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫