・・・と、善吉はしばらく黙して、「宿なしになッちあア、夫婦揃ッて乞食にもなれないから、生家へ返してしまッたんだがね……。ははははは」と、善吉は笑いながら涙を拭いた。「まアお可哀そうに」と、吉里もうつむいて歎息する。「だがね、吉里さん、私し・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなかろう。誰にだってなあ。ははは。何百万と云う貨物が靴の中にあるのだ。」 一本腕は無意識に手をさし伸べて、爺いさんの左の手に飛び附こうとした。「手を引っ込・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・主人。誰が。家来。何だかわたくしも存じません。厭らしい奴が大勢でございます。主人。乞食かい。家来。如何でしょうか。主人。そんなら庭から往来へ出る処の戸を閉めてしまって、お前はもう寝るが好い。己には構わないでも好いから。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・きっと乞食が取ったか、この近辺の子が持って往たのだろう。これだから日本は困るというのだ。社会の公徳というものが少しも行われて居らぬ。西洋の話を聞くと公園の真中に草花がつくってある。それには垣も囲いもなんにもない。多くの人はその傍を散歩して居・・・ 正岡子規 「墓」
・・・人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。」「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バク・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
だいぶ古いことですが、イギリスの『タイムズ』という一流新聞の文芸附録に『乞食から国王まで』という本の紹介がのっていました。著者は四〇歳を越した一人の看護婦でした。二〇年余の看護婦としての経験と彼女の優秀な資格は、ロンドン市・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
・・・これでは旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいかと言って、女房と相談していると、そこへ小女が来て、「只今ご門の前へ乞食坊主がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しますがいかがいたしましょう」と言った。「ふん、坊主か」と言って閭はしばら・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにさ・・・ 横光利一 「南北」
・・・ この土地では夜も戸を締めない。乞食もいなければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃の六月の夜の薄明りの、褪めたよう・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・著者はシナの乞食の図太さの内にさえそれに類したものを認めている。寒山拾得はその象徴である。しからば人はいかにして不死身となり得るか。我を没して自然の中に融け入ることができるからである。著者はこの境地の内に無限に深いもの、無限に強いものを認め・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫