・・・家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかかった。かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出す手筈である。水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどで・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 一つの乳牛に消化不良なのがあって、今井獣医の来たのは井戸ばたに夕日の影の薄いころであった。自分は今井とともに牛を見て、牧夫に投薬の方法など示した後、今井獣医が何か見せたい物があるからといわるるままに、今井の宅にうち連れてゆくことに・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・櫟林や麦畠や街道や菜園や、地形の変化に富んだその郊外は静かで清すがしかった。乳牛のいる牧場は信子の好きなものだった。どっしりした百姓家を彼は愛した。「あれに出喰わしたら、こう手綱を持っているだろう、それのこちら側へ避けないと危いよ」・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・今思えばいかにも市中の牧場らしく、ただ平地に柵をめぐらされているだけのその牧場だったが、そこに、いつも四五頭の乳牛が出ていた。白と飴色のまだら、白黒のまだら。ちょっとおしりのところと角のところだけ黒くて、あとは白いの。子供たちは竹垣のやぶれ・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ 退屈な乳牛共が板敷をコトコト踏みならす音や、ブブブブと鼻を鳴らすの、乾草を刃物で切る様な響をたてて喰べて居るのなどが入りまじって、静かな様な、やかましい様な音をたてて居る。 わきに少しはなれて子牛と母牛を入れてある処がある。乳臭い・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫