・・・私はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡をかけながら、まるで後見と云う形で、三浦の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感に脅かされずにはいられませんでした。しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・この相手の口吻には、妙に人を追窮するような所があって、それが結局自分を飛んでもない所へ陥れそうな予感が、この時ぼんやりながらしたからである。そこで本間さんは思い出したように、白葡萄酒の杯をとりあげながら、わざと簡単に「西南戦争を問題にするつ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・――宇左衛門は、不吉な予感に襲われながら、慌しく佐渡守の屋敷へ参候した。 すると、果して、修理が佐渡守に無礼の振舞があったと云う話である。――今日出仕を終ってから、修理は、白帷子に長上下のままで、西丸の佐渡守を訪れた。見た所、顔色もすぐ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えない訣には行かなかった。「今年は家が火事になるかも知れないぜ」「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険は碌についていないし、……」 僕等は・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・――予感というものはあるものでしょうか。 その日の中に、果しておなじような事が起ったんです。――それは受取った荷物……荷は籠で、茸です。初茸です。そのために事が起ったんです。 通り雨ですから、すぐに、赫と、まぶしいほどに日が照ります・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・思わず危険を予感した。「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷ったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐る勢で、お藻代さんの、恍惚したその寝顔へ、蓋も飛んで、仰向けに、熱湯が、血で・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ いわつばめは、不吉な予感がしたように、いきいきとした顔をくもらしました。 しんぱくは、またひとしきり、疾風に顔を動かしながら、「このごろは、夜になると霜がおります。そして、星の影は、魔物の目のようにすごく光ります。どんな人間で・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・が、やはり不気味な予感は消えなかった。 とにかく、事情を明らかにすることだ。「どうしたんです、一体……?」 小沢は自分にしがみついている娘に、そうきいた。「…………」 娘は答えなかった。「辻強盗に剥がれたんですか……・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・「いつからか自分にはこうしたことになって、故郷に帰ることになるだろうという予感はあったよ」とも思った。そして改札口前をぶらぶらしていたが、表の方からひょこひょこはいってくる先刻の小僧が眼に止ったので、思わず駈け寄って声をかけた。「やっぱ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 彼が何気なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、彼は一つの予感でぎくっとした。そしてそれがまごうかたなく自分の秘かに欲していた情景であることを知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫