・・・――里見探偵事務所はわかっている。事務所の誰?――吉井君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかも知れない。――じゃ停車場へ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さよ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの嶮しい赤土の坂を登らなければならない。ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見もせずに足にまかせてそのあとに※いて行・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 妻が黙ったまま立留ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退窮った。彼れは道・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 池がある、この毛越寺へ詣でた時も、本堂わきの事務所と言った処に、小机を囲んで、僧とは見えない、鼠だの、茶だの、無地の袴はいた、閑らしいのが三人控えたのを見ると、その中に火鉢はないか、赫と火の気の立つ……とそう思って差覗いたほどであった・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・その地下室はもとどこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけない。それが妙に陰気くさいのだ。また、大学病院の建物も橋のたもとの附属建築物だけは、置き忘れられたようにうら淋しい。薄汚れている。入口の階段に患者が灰色にうずくまったりしている・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ 梅田新道の事務所へ届けてくれ? もしもし、放送局へ掛けてるんですよ、こちらは……。えっ? 莫迦野郎? 何っ? 何が莫迦野郎だ?」 混線していた。「ああ、俺はいつも何々しようとした途端、必ず際どい所で故障がはいるのだ」 と、がっ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 銀色の紐を通した一組七枚重ねの、葉形カードに仕上げて、キャバレエの事務所へ届けに行くと、一組分買え、いやなら勘定から差引くからと、無理矢理に買わされてしまった。帰って雇人に呉れてやり、お前行けと言うと、われわれの行くところでないと辞退・・・ 織田作之助 「雪の夜」
上 大庭真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可いと言っていた。温厚しい性質だから会社でも受が・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 杜氏は、醸造場へ来ると事務所へ与助を呼んで、障子を閉め切って、外へ話がもれないように小声で主人の旨を伝えた。 お正月に、餅につけて食う砂糖だけはあると思って、帆前垂にくるんだザラメを、小麦俵を積重ねた間にかくして、与助は一と息・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・僕が出たあと、半年ほどして、山漢社長はつゞまりがつかなくなって事務所にも、バラックにも、火をつけて焼いてしまったという話だ。一度、そのあとが、今どうなっているか見に行こうと思うが、まだよう行かずにいる。建物会社をやめて暁声社という鶏の雑誌を・・・ 黒島伝治 「自伝」
出典:青空文庫