一 道太が甥の辰之助と、兄の留守宅を出たのは、ちょうどその日の昼少し過ぎであった。彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・んや、ふんどしひとつのすねをたたきながら、ひさし下のしおたれた朝顔のつるをなおしているおやじさんや、さわがしい夕飯まえの路地うちをいくつもまがってから、長屋のはしっこの家のかど口に「日本友愛会熊本支部事務所」とかいた、あたりには不似合な、大・・・ 徳永直 「白い道」
・・・この室にはベランダはなかったが、バルコンのついた仏蘭西風の窓に凭ると、芝生の向に事務所になった会社の建物と、石塀の彼方に道路を隔てて日本領事館の建物が見える。その頃には日本の租界はなかったので、領事館を始め、日本の会社や商店は大抵美租界の一・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・駐在所は会社の事務所に注意した。会社員は組員へ注意した。組員は名義人に注意した。名義人は下請に文句を言った。 下請は世話役に文句を云った。世話役が坑夫に、「もっと調子よくやれよ。八釜しくて仕様がないや」「八釜しい奴あ、耳を塞いど・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ 応急手当が終ると、――私は船乗りだったから、負傷に対する応急手当は馴れていた――今度は、鉄窓から、小さな南瓜畑を越して、もう一つ煉瓦塀を越して、監獄の事務所に向って弾劾演説を始めた。 ――俺たちは、被告だが死刑囚じゃない、俺たちの・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・「私は、今事務所から、こちらで働らけと云われてやって参りました。」 農夫長はうなずきました。「そうか。丁度いいところだった。昨夜はどこへ泊った。」「事務所へ泊りました。」「そうか。丁度よかった。この人について行ってくれ。・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・どうぞシカゴ畜産組合の事務所でゆっくり御計算を願います。即ち世界中の小麦と大麦米や燕麦蕪菁や甘藍あらゆる食品の産額を発見して先ず第一にその中から各々家畜の喰べる分をさし引きます。その際あんまりびっくりなさいませんように。次にその残りの各々か・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・岸壁へ出て、半分倉庫みたいな半分事務所のような商船組合の前で荷馬車がとまった。目の前に、古びた貨物船が繋留されている。それが我等を日本へつれてゆく天草丸だった。 そこからは、入りくんだ海の面と、そのむこうに細かく建物のつまった出鼻の山の・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ そのころ、文芸家協会の事務所が、芝田村町の、妙に粋めいた家に置かれていた。一室に事務所があった。私は、ある午後、ひとりでそこを訪ねた。英文学の仕事をしていた某氏が事務担当をしていた。私の用事は、前に中野さんと某氏を訪ねたとおなじ題目で・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・あのカードへ、これからよみたい新聞の名をかいて、新聞読者調整事務所といういかめしいところへ送ってやれば、欲しい新聞がよめるというしかけになっていた。これまでよみたい新聞がよめないで、代りにとれる新聞でがまんしていた人々は、この際一つをやめて・・・ 宮本百合子 「現代史の蝶つがい」
出典:青空文庫