・・・或暮年の頃廿五六なる若侍一人、諏訪の前を通りけるに常々化物あるよし聞及び、心すごく思いけるおり、又廿五六なる若侍来る。好き連と思い伴いて道すがら語りけるは、ここには朱の盤とて隠れなき化物あるよし、其方も聞及び給うかと尋ぬれば、後より来る若侍・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・苟も吾々の肉体に於て、有ゆる外界の刺戟に堪え得るは僅に廿歳より卅歳位迄の極めて短かい年月ではないか、そして年と共に肉体的の疲労を感じて来て何程思想の上に於て願望すればとて、終には外界の刺戟は鋭く感覚に上って来なくなるのは明かな事実である。此・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・という小説も、全く別な廿世紀の生々しさが出るのではないかと思い、実に大まかな通俗の言葉ばかり大胆に採用して、書いてみたわけであります。廿世紀の写実とは、あるいは概念の肉化にあるのかも知れませんし、一概に、甘い大げさな形容詞を排斥するのも当る・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私から見ると、いずれも十六七くらいにしか見えない温厚な少年でありましたが、それでもやはり廿を過ぎて居られるのでしょうね。どうも、此頃、人の年齢のほどが判らなくなってしまいました。十五の人も三十の人も四十の人も、また或は五十の人も、同じことに・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・十日、庚戌、将軍家御疱瘡、頗る心神を悩ましめ給ふ、之に依つて近国の御家人等群参す。廿九日、己巳、雨降る、将軍家御平癒の間、御沐浴有り。(吾妻鏡 おたずねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避け・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・ むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは廿七間しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりはるかに大きかったのである。 この橋は、おおむか・・・ 太宰治 「葉」
・・・昭和廿二年二月 ○ 市川の町を歩いている時、わたくしは折々四、五十年前、電車も自動車も走っていなかったころの東京の町を思出すことがある。 杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・昭和廿一年十月草 永井荷風 「草紅葉」
・・・太空は一片の雲も宿めないが黒味わたッて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇顔の電気燈は、軒より下の物の影を往来へ投げておれど、霜枯三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 英国人サー・アーノルドの漫遊記、また英国公使フレザー夫人の著書の如きは、共に明治廿二、三年のころの日本の面影を窺わしめる。 わたくしはラフカヂオ・ハーンが『怪談』の中に、赤坂紀の国坂の暗夜のさま、また市ヶ谷瘤寺の墓場に藪蚊の多かっ・・・ 永井荷風 「西瓜」
出典:青空文庫