上 五月二日付の一通、同十日付一通、同二十五日付の一通、以上三通にてわれすでに厭き足りぬと思いたもうや。もはやかかる手紙願わくは送りたまわざれとの御意、確かに承りぬ。されど今は貴嬢がわれにかく願いたもう時は過ぎ去りてわれ貴嬢に願・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・そこで弘長元年五月十二日幕吏は突如として、彼の説法中を小町の街頭で捕えて、由比ヶ浜から船に乗せて伊豆の伊東に流した。これが彼の第二の法難であった。 この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 毎年二月半ばから四月五月にかけて但馬、美作、備前、讃岐あたりから多くの遍路がくる。菅笠をかむり、杖をつき、お札ばさみを頸から前にかけ、リンを鳴らして、南無大師遍照金剛を口ずさみながら霊場から霊場をめぐりあるく。 この島四国めぐりは・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ詣って、そして「時は今天が下知る五月かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て嘲笑って、信玄、弓箭では意をば得ぬより権現の・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
五月が来た。測候所の技手なぞをして居るものは誰しも同じ思であろうが、殊に自分はこの五月を堪えがたく思う。其日々々の勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追わ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 油地獄にも、ならずものの与兵衛とかいう若い男が、ふとしたはずみで女を、むごたらしく殺してしまって、その場に茫然立ちつくしていると、季節は、ちょうど五月、まちは端午の節句で、その家の軒端の幟が、ばたばたばたばたと、烈風にはためいている音・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・ 端午の節句――要垣の赤い新芽の出た細い巷路を行くと、ハタハタと五月鯉の風に動く音がする。これを聞くと、始めて初夏という感を深く感ずる。雨の降頻る中に、さまさまの色をした緑を抜いて、金の玉のついた長い幟竿のさびしく高く立っているのは何と・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・ただ彼が昨年の五月ライデンの大学で述べた講演の終りの方に、「素量説として纏められた事実があるいは『力の場』の理論に越え難い限定を与える事になるかもしれない」と云っている。この謎のような言葉の解釈を彼自身の口から聞く事の出来る日が来れば、それ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・昭和二年五月 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・折からの五月である。館を繞りて緩く逝く江に千本の柳が明かに影をひたして、空に崩るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木の間隠れに白くひく筋の、一縷の糸となって烟に入るは、立ち上る朝日・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫