・・・ 冷ややかな空気に触れ、つめたい井戸水に顔を洗って、省作もようやく生気づいた。いくらかからだがしっかりしてきはきたが、まだ痛いことは痛い。起きないうちはわからなかったが、起きて歩いて見ると股根が非常に痛む。とても直立しては歩けない。省作・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ ところが、拾い屋をはじめてから十日ばかりたったある朝、ガードの近くの百姓家へ井戸水を貰いに行っていると、そこの主人が拾い屋もいいが、一日三十七銭にしかならぬようではしかたがない。それより車の先引きをしないかと言う。その主人の親戚で亀や・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。 夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・この圧迫するような感じを救うためには猿股一つになって井戸水を汲み上げて庭樹などにいっぱいに打水をするといい。葉末から滴り落ちる露がこの死んだような自然に一脈生動の気を通わせるのである。ひきがえるが這出して来るのもこの大きな単調を破るに十分で・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定・・・ 寺田寅彦 「流言蜚語」
・・・しかし近年は裏の藤棚の下の井戸水を頭へじゃぶじゃぶかけるだけで納涼の目的を達するという簡便法を採用するようになった。年寄りの冷や水も夏は涼しい。 われわれ日本人のいわゆる「涼しさ」はどうも日本の特産物ではないかという気がする。シナのよう・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ 次には毒ガス泉や井戸水の問題がある。井水の温度に関する彼の説明は奇抜である。 その次に磁石の説が来るのは今の科学書の体裁と比較して見れば唐突の感がある。ただし著者のつもりは、あらゆる「不思議」を解説するにあるのであって、科学の系統・・・ 寺田寅彦 「ルクレチウスと科学」
・・・――勘助は井戸水をくみ上げながら、いやはやと思った。これは、大火事より都合がわるい。見物は、だらしなく、ワアハハハと笑うきりで手助けはしないし、火より先にけんかをやめさせる必要がある。勇吉夫婦は、ところが、名うての豪の者ではないか! 勘・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
出典:青空文庫