・・・ 私はいまいましい気持で、彼のうしろについて外へ出て井戸端に行き、かわるがわる無言でポンプを押して手を洗い合った。「うがいして下さい。」 彼にならって、私も意味のわからぬうがいをする。「握手!」 私はその命令にも従った。・・・ 太宰治 「女神」
・・・という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝に片脚を踏込んだという恥曝しの記憶がある。 その翌年は友人のKと甥のRと三人で同じ種崎・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・その頃のわが家を想い出してみると、暗いランプに照らされた煤けた台所で寒竹の皮を剥いている寒そうな母の姿や、茶の間で糸車を廻わしている白髪の祖母の袖無羽織の姿が浮び、そうして井戸端から高らかに響いて来る身に沁むような蟋蟀の声を聞く想いがするの・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・夜中にふと眼がさめると台所の土間の井戸端で虫の声が恐ろしく高く響いているが、傍には母も父も居ない。戸の外で椶櫚の葉がかさかさと鳴っている。そんなときにこの行燈が忠義な乳母のように自分の枕元を護っていてくれたものである。 母が頭から銀の簪・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・そうして下宿へ帰ると井戸端へ行って水ごりをとった。それでも、あるいはそのおかげで、からだに別条はなかった。 滞欧中の夏はついに暑さというものを覚えなかったが、アメリカへ渡っていわゆる「熱波」の現象を体験することを得た。五月初旬であったか・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・尤も私は、その以前から、台所前の井戸端に、ささやかな養所が出来て毎日学校から帰るとに餌をやる事をば、非常に面白く思って居た処から、其の上にもと、無理な駄々を捏る必要もなかったのである。如何に幸福な平和な冬籠の時節であったろう。気味悪い狐の事・・・ 永井荷風 「狐」
・・・あるいはこれを捨てて用いざらんか、怨望満野、建白の門は市の如く、新聞紙の面は裏店の井戸端の如く、その煩わしきや衝くが如く、その面倒なるや刺すが如く、あたかも無数の小姑が一人の家嫂を窘るに異ならず。いかなる政府も、これに堪ゆること能わざるにい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 婆さんは家へ来ると井戸端ですっかり足を洗い、白髪を梳しつけてから敷居際にぴったりと座って、「ハイ、御隠居様、御寒うござりやす。御邪魔様でござりやす。と云う。 歩いて居ると体はまっ直になって居るが、座るとお腹を引っこ・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ お豊さんは台所の棚から手桶をおろして、それを持ってそばの井戸端に出て、水を一釣瓶汲み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにもかいがいしい。使命を含んで来たご新造は、これならば弟のよめにしても早速役に立つだろうと思って、・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫