・・・其家のなにがし、遠き昔なりけん、村隣りに尋ぬるものありとて、一日宵のほどふと家を出でしがそのまま帰らず、捜すに処無きに至りて世に亡きものに極りぬ。三年の祥月命日の真夜中とぞ。雨強く風烈しく、戸を揺り垣を動かす、物凄じく暴るる夜なりしが、ずど・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・……痩ぎすで華奢なお桂ちゃんの片手では受切れない、両の掌に積んで、銀貨の小粒なのは指からざらざらと溢れたと言う。……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・織次の亡き親父と同じ夥間の職人である。 此処からはもう近い。この柳の通筋を突当りに、真蒼な山がある。それへ向って二町ばかり、城の大手を右に見て、左へ折れた、屋並の揃った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。 その男を訪ねるに仔細・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・実によき水ぞ、市中にはまた類あらじと亡き母のたまいき。いまこれをはじめならず、われもまたしばしばくらべ見つ。摩耶と二人いま住まえる尼君の庵なる筧の水もその味これと異るなし。悪熱のあらむ時三ツの水のいずれをか掬ばんに、わが心地いかならむ。忘る・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。「母上。」 と、ミリヤアドの枕の許に僵れふして、胸に縋りて・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに掛ったのが、可懐い亡き母の乳房の輪線の面影した。「まあ、これからという、……女にしても蕾のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……え・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・火を点じて後、窓を展きて屋外の蓮池を背にし、涼を取りつつ机に向いて、亡き母の供養のために法華経ぞ写したる。その傍に老媼ありて、頻に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊したりけむ、ふと今ここに来れるが、早くもお通の姿を見て、眼を細め舌・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ところが、その通知と一緒に、田中喜美子様と、亡き姉に宛てた手紙が、ひょっこり配達されていた。アパートの中庭では、もう木犀の花が匂っていた。 死んでしまった姉に思いがけなく手紙が舞い込んで来るなど、まるで嘘のような気がした。姉が死んだのは・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容をすな。 今は亡き、畏友、笠井一について書きしるす。 笠井一。戸籍名、手沼謙蔵。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。亡父は貴族院議員、手・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・お盆の来るごとに亡き母の思い出を溜息つきながらひとに語り、近所近辺の同情を集めた。三郎は母を知らなかった。彼が生れ落ちるとすぐ母はそれと交代に死んだのである。いまだかつて母を思ってみたことさえなかったのである。いよいよ嘘が上手になった。黄村・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫