・・・夜の八時ごろ、ほろ酔いのブローカーに連れられて、東京駅から日本橋、それから京橋へ出て銀座を歩き新橋まで、その間、ただもうまっくらで、深い森の中を歩いているような気持で人ひとり通らないのはもちろん、路を横切る猫の子一匹も見当りませんでした。お・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・ むすこのSちゃんに連れられては京橋近い東裏通りの寄席へ行った。暑いころの昼席だと聴衆はほんの四五人ぐらいのこともあった。くりくり坊主の桃川如燕が張り扇で元亀天正の武将の勇姿をたたき出している間に、手ぬぐい浴衣に三尺帯の遊び人が肱枕で寝・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
一 花火 一月二十六日の祝日の午後三時頃に、私はただあてもなく日本橋から京橋の方へあの新開のバラック通りを歩いていた。朝よく晴れていた空は、いつの間にかすっかり曇って、湿りを帯びた弱い南の風が吹いていた。・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 二 草市 七月十三日の夕方哲学者のA君と二人で、京橋ぎわのあるビルディングの屋上で、品川沖から運ばれて来るさわやかな涼風の流れにけんぐしながら眼下に見通される銀座通りのはなやかな照明をながめた。煤煙にとざされた大都・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・宅へ帰ってどうすると云うあてもないので、銀座通りをぶらぶら歩き、大店のガラス窓の中を覗いてみたり雑誌屋の店先をあさってみたり、しばらくはほとんど何事も忘れていた。京橋から電車に乗ってこの片隅へ腰を下ろしてから始めて今朝の別れを思い起し、それ・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・ そのころ、わたくしはわが日誌にむかしあって後に埋められた市中溝川の所在を心覚に識して置いたことがある。即次の如くである。 京橋区内では○木挽町一、二丁目辺の浅利河岸○新富町旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町旧居留地の中央を・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 幸福な、而も田舎の子供のようにしかつめらしい顔をした私は、次に工事を終ったばかりの京橋を渡り、第一相互館の宏壮な建物の下に出る。 そこに、私のフェイボリットが二つあった。 一つは、電気器具販売店、一つは、仏蘭西香水の売店。・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・私が何故そう奇麗でもない昼、夕刻にかけて散歩したかといえば、夜では隠れてしまう生活の些細な、各々特色のある断面を、鋪道の上でも、京橋から見下す河の上にでも見物されたからである。それに、昼間から夜に移ろうとする夕靄、罩って段々高まって来る雑音・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・ でも他所に用がまだ有るんだって京橋へ行きましたよ!「へえ、わざわざ用を作ったんですよ、 そうにきまってますともね。 あの方はそう親しくない人なんかの家へ行きそうない様子ですもの、 引込思案らしい方ですものねえ。「そ・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路の松平伯耆守宗発の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。 続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心恟々としている・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫