・・・これは勿論一つには、彼の蒲柳の体質が一切の不摂生を許さなかったからもありましょうが、また一つには彼の性情が、どちらかと云うと唯物的な当時の風潮とは正反対に、人一倍純粋な理想的傾向を帯びていたので、自然と孤独に甘んじるような境涯に置かれてしま・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・すると彼は硝子窓の下に人一倍細い頸を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしていた。そのまた彼の頭の上には真鍮の油壺の吊りランプが一つ、いつも円い影を落していた。…… 二 彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ本所・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・しかし家康はいつの間にか人一倍大きい目をしたまま、何か敵勢にでも向い合ったようにこう堂々と返事をした。――「いや、おれは欺かれはせぬ。」 芥川竜之介 「古千屋」
・・・体の逞しい姉の夫は人一倍痩せ細った僕を本能的に軽蔑していた。のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。僕はいつも冷やかにこう云う彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかった。しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のよ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・それは彼の小鼠を一匹、――しかも五体の整った小鼠を一匹とったためだった。人一倍体の逞しいSは珍しい日の光を浴びたまま、幅の狭い舷梯を下って行った。すると仲間の水兵が一人身軽に舷梯を登りながら、ちょうど彼とすれ違う拍子に常談のように彼に声をか・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・「俺しは元来金のことにかけては不得手至極なほうで、人一倍に苦心をせにゃ人並みの考えが浮かんで来ん。お前たちから見たら、この年をしながら金のことばかり考えていると思うかもしらんが、人が半日で思いつくところを俺しは一日がかりでやっと追いつい・・・ 有島武郎 「親子」
・・・結婚をして人一倍の忠義ができる。神様のおめぐみ、ありがたいかたじけない。この玉をみつけた上は明日にでも御婚礼をしましょう」 と喜びがこみ上げて二人とも身をふるわせて神にお礼を申します。 これを見た燕はどんなけっこうなものをもらったよ・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・そしてどちらの背中にも夏簾がかかっていて、その中で扇子を使っている人々を影絵のように見せている灯は、やがて道頓堀川のゆるやかな流れにうつっているのを見ると、私の人一倍多感な胸は躍るのでしたが、しかし、そんな風景を見せてくれた玉子を、あのいつ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私の頭には一本の白髪もなく、また禿げ上った形跡もない。人一倍髪の毛が長く、そして黒い。いわばこの長髪だけが無疵で残って来たという感じである。おまけにこの長髪には、ささやかながら私の青春の想い出が秘められているようである。男にも髪の歴史という・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 佐助は、アバタ面のほかに人一倍強い自惚れを持っていた。 その証拠に、六つの年に疱瘡に罹って以来の、医者も顔をそむけたというおのが容貌を、十九歳の今日まで、ついぞ醜いと思ったことは一度もなく、六尺三寸という化物のような大男に育ち・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
出典:青空文庫