・・・可哀や剣術は竹刀さえ、一人前には使えないそうな。」――こんな噂が誰云うとなく、たちまち家中に広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬や羨望も交っていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具えた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを欠いた片輪である。(尤も時には偉大なる片輪に敬服することもない訣 「虹霓関」を見て 男の女を猟するのではない。女の男を猟するのであ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・興奮が来ると人前などをかまってはいない父の性癖だったが、現在矢部の前でこんなものの言い方をされると、彼も思わずかっとなって、いわば敵を前において、自分の股肱を罵る将軍が何処にいるだろうと憤ろしかった。けれども彼は黙って下を向いてしまったばか・・・ 有島武郎 「親子」
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・まあ、独言を云って、誰かと話をしているようだよ…… (四辺そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 見る見る、お前さん、人前も構う事か、長襦袢の肩を両肱へ巻込んで、汝が着るように、胸にも脛にも搦みつけたわ、裾がずるずると畳へ曳く。 自然とほてりがうつるんだってね、火の燃える蝋燭は、女のぬくみだッさ、奴が言う、……可うがすかい。・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 隣から三人、家のものが五人、都合八人だが、兄は稲を揚げる方へ回るから刈り手は七人、一人で五百把ずつ刈れば三千五百刈れるはずだけれど、省作とおはまはまだ一人前は刈れない。二人は四百把ずつ刈れと言い渡される。省作は六尺大の男がおはまと組む・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 殊に鴎外の如き一人で数人前の仕事をしてなお余りある精力を示した人豪は、一日でも長く生き延びさせるだけ学界の慶福であった。六十三という条、実はマダ還暦で、永眠する数日前までも頭脳は明晰で、息の通う間は一行でも余計に書残したいというほど元・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
それは、独り、男の子と限った訳ではないが、子供を一人前に養育するということは決して容易なことでないのは、恐らく、すべての子供を持った程の人々なら、想像されることだと思います。 乳飲児の時代から、ようやく独り歩きをする時代、そして、・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
・・・それから間鴨をもう二人前、雑物を交ぜてね」 で、間もなくお誂えが来る。男は徳利を取り揚げて、「さあ、熱いのが来たから、一つ注ごう」 女も今度は素直に盃を受けて、「そうですか、じゃ一つ頂戴しましょう。チョンボリ、ほんの真似だけにしとい・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫