・・・ 松本の横顔に声を掛けて、坂田は今晩はと、扉を押した。そして、「えらい済んまへんが、珈琲六人前淹れたっとくなはれ」 ぞろぞろと随いてはいって来た女たちに何を飲むかともきかず、さっさと註文して、籐椅子に収まりかえってしまった。・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・斯う心の中に思いながら、彼が目下家を追い立てられているということ、今晩中に引越さないと三百が乱暴なことをするだろうが、どうかならぬものだろうかと云うようなことを、相手の同情をひくような調子で話した。「さあ……」と横井は小首を傾げて急に真・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「こりゃ、ヒョットすると今晩かも知れぬ、寝て居るどころでは無い」と、直ぐ家を飛び出して半丁程離れた弟の家へ行き懐中電燈を持って直ぐ来て呉れと言って、また走って帰りました。弟二人、次弟の妻、それの両親など飛んで来て瞳孔を視ましたが開いては居ま・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 4「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のなかに浮かんだ人影を眺めてそう思った。彼は幾晩もその人影を認めた。そのたびに彼はそれがカフェで話し合った青年によもやちがいがないだろうと思い、自分の心に企らんでい・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・を、どうした事やらきのうも今日も油さえ売りにあるかぬは、ことによると風邪でも引いたか、明日は一つ様子を見に行ってやろうとうわさをすれば影もありありと白昼のような月の光を浴びてそこに現われ、『皆さん今晩は』といつになきまじめなる挨拶、黙っ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・「今晩は。」 屋内ではぺーチカを焚き、暖気が充ちている。その気はいが、扉の外から既に感じられた。「今晩は。」「どうぞ、いらっしゃい。」 朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。「まあ、ヨシナガサン! いらっ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・龍介は歩きながら、Tがいなかったら、また今晩は変に調子が狂うかもしれないと思った。そう思うと何んだかいないかもしれない気がしてきた。が図書館の入口の電燈が見え始めた時彼は立ち止まった。なぜ自分はこう友だちのところへ行くのか、と考えた。友だち・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ それで王女をこっそりとおよびになって、「今晩は魔法のおくの手をすっかり出して、かならずにげ出しておくれ。もし、しくじったら、おまえもただではおかないぞ。」ときびしくお言いわたしになりました。 王女は、「かしこまりました。今・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・アメリイさん。今晩は。クリスマスの晩だのに、そんな風に一人で坐っているところを見ると、まるで男の独者のようね。ほんとにお前さんのそうしているところを見ると、わたし胸が痛くなるわ。珈琲店で、一人ぼっちでいるなんて。お負けにクリ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・私どもも、大戦中から闇の商売などして、その罰が当って、こんな化け物みたいな人間を引受けなければならなくなったのかも知れませんが、しかし、今晩のような、ひどい事をされては、もう詩人も先生もへったくれもない、どろぼうです、私どものお金を五千円ぬ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫