・・・白き細き指にレエスの付きたる白き絹の紛※を持ちおる。母は静に扉を開きて出で、静に一間の中母。この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を覚える事やら。わたしがこの世に生きていた間の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂のよ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・四、ケンタウル祭の夜 ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。 坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格と運とによりましょが、いずれにせよ、行きつくところまで行きついてそこに新たな境地を開かせる本質が恋愛につきものなのです。 自然は、人間の恋愛を唯だ男性と・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・本庄は丹後国の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き本庄久右衛門が召使っていた。仲津で狼藉者を取り押さえて、五人扶持十五石の切米取りにせられた。本庄を名のったのもそのときからである。四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役を勤めた切米取りであ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・と、娘は厳重な詞附きで問うた。 ツァウォツキイは左の手でよごれた着物の胸を押さえた。小刀の痕を見附けられたくなかったのである。そしてもうこの娘を見たから、このまま帰ってもよいのだと心の中に思った。しかし問われて見れば返事をしないわけには・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛えていて、ひとり和やかに沈・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その背後は海である。「行ってしまったのです。移住したのです。行方不明です。」「それはよほど前の事かね。」「さよう。もう三十年程になります。」 エルリングは昂然として戸口を出て行く・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫