・・・机の上にはさっきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ仰向きに倒れているのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。「お婆さんはどうして?」「死んでいま・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ かく言い懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極まりなき最後の眼に、国手をじっと瞻りて、「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」 謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 謂われて叔母は振仰向き、さも嬉しげに見えたるが、謙三郎の顔の色の尋常ならざるを危みて、「お前、可いのかい。何ともありゃしないかね。」「いや、お憂慮には及びません。」 といと淋しげに微笑みぬ。 三・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・省作は本を持ったまま仰向きにふんぞり返って天井板を見る。天井板は見えなくておとよさんが見える。 今夜は湯に行かない方がええかしら。そうだゆくまい。行かないとしよう。なに行ったってえいさ。いやいや行かない 方がえい。ゆくまいというは道・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そっと仰向きに寝たまま、何を考える精もなく、ただ目ばかりパチクリ動かしていた。 見るともなく見ると、昨夜想像したよりもいっそうあたりは穢ない。天井も張らぬ露きだしの屋根裏は真黒に燻ぶって、煤だか虫蔓だか、今にも落ちそうになって垂下ってい・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・一切片附けて枕許には何も置かずに床に入った、ところが、やがて昨晩と、殆んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧されるようになったので、不図また眼を開けて見ると、再度吃驚したというのは、仰向きに寝ていた私の胸先に、着物も帯も昨・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ 私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠を、一つずつ私の眼蓋にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。 仔猫よ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・やがてころりと仰向きに寝ころがった。おおぜいのひとたちは祖母のまわりに駈せ集い、一斉に鈴虫みたいな細い声を出して泣きはじめた。私は祖母とならんで寝ころがりながら、死人の顔をだまって見ていた。ろうたけた祖母の白い顔の、額の両端から小さい波がち・・・ 太宰治 「玩具」
・・・佐伯は、机の傍にごろりと仰向きに寝ころび、へんな笑いかたをした。「君は、どうしてそんな、ぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね? いつでも、必ずそう言うじゃないか。読みはじめた、と言ったっていいと思うがね。」「軽蔑し給うな。」と・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ところがこの二三年前、偶然な機会から椿の花が落ちるときにたとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察しまた実験をした結果、やはり実際にそうい・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
出典:青空文庫