・・・すると眼の下の床へぱたりと一疋の玉虫が落ちた。仰向きに泥だらけの床の上に落ちて、起き直ろうとして藻掻いているのである。しばらく見ていたが乗客のうちの誰もそれを拾い上げようとする人はなかった。自分はそっとこの甲虫をつまみ上げてハンケチで背中の・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ 甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突からモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も、舷に見える波も、みんな音楽に拍子を合わせて動いているような気がする。どうも西洋の音楽を聞いていると何物かが断えず一方へ進行しているように思われ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・中に銀杏がえしの女の頭がいくつもあって、それから Fate という字がいろいろの書体でたくさん書き散らしてあった。仰向きに寝ていた藤野が起き上がってそれを見ると、青い顔をしたが何も言わなかった。 九 楝の花・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・視感的空間では仰向きの茶わんとうつ向きの茶わん、一里を隔てた山と脚下の山とはあまりに相違したものである。紙面に描いた四角でもその傾き方で全く別な感覚を起こしてもよいはずである。しかるにこのような相違を怪しまず当然としているのは、吾人が主観を・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・同時に碌さんは、どさんと仰向きになって、薄の底に倒れた。 五「おい、もう飯だ、起きないか」「うん。起きないよ」「腹の痛いのは癒ったかい」「まあ大抵癒ったようなものだが、この様子じゃ、いつ痛くなるかも・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ ビール箱の蓋の蔭には、二十二三位の若い婦人が、全身を全裸のまま仰向きに横たわっていた。彼女は腐った一枚の畳の上にいた。そして吐息は彼女の肩から各々が最後の一滴であるように、搾り出されるのであった。 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ チェンロッカーの蓋の上には、安田が仰向きに臥ていた。 三時間か四時間の間に、彼は茹でられた菜のように、萎びて、嵩が減って、グニャグニャになっていた。 おもては、船特有の臭気の外に、も一つ「安田」の臭いが混ざって、息詰らせていた・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・そして、仰向き眼をしぱしぱさせながら何かを考え出した。 やがて、彼は側の小卓子の引き出しから一枚の白紙と鉛筆をとり出した。 さほ子が小一時間の後、手を拭き拭き台所から戻って来ると、彼は黙って其紙片を出して見せた。彼女は莞爾ともしない・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 自分は畳んだ羽織やちり紙を枕がわりに頭の下へかい、踵の方に力をこめて、背筋をのばすように仰向きに寝ながら、それらの街の音をきき、ぼんやり電球を眺めている。 電球はいきなりむき出しに、廊下に向う金網の鉄の外枠から下っているのだが、そ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・今私はこの手紙を、二階の部屋のベッドに仰向きになって背中の方へクッションをつめて、板に紙をのっけてかいているのですが。そして、こんな形で手紙をかかなければならないことについて、小さくなっています。二日の夜、夕飯後、急におなかが苦しくなって、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫