・・・内蔵助もやはり、慇懃に会釈をした。ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。これにはさすがな・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・――お嬢さんも彼に会釈をした! やっと停車場の外へ出た彼は彼自身の愚に憤りを感じた。なぜまたお時儀などをしてしまったのであろう? あのお時儀は全然反射的である。ぴかりと稲妻の光る途端に瞬きをするのも同じことである。すると意志の自由には・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 遠慮会釈もなく迅風は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆のような闇が大河の如く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに甦った。 こうして仁右衛門夫婦は、何処からと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・とこっちを見る時、あの子供と二人で皆んなの好奇的な眼でなぶられるのもありがたい役廻りではないと気づかったりして、思ったとおりを実行に移すにはまだ距離のある考えようをしていたが、その時分には扉はもう遠慮会釈もなく三、四寸がた開いてしまっていた・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ 娘が、柔順に尋常に会釈して、「誰方?……」 と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐から、頭へ浴びせて、大きな声で、「何か、用か。」と喚いた。「失礼!」 と言う、頸首を、空から天狗に引掴まるる心地がして、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・中には、袴らしい風呂敷包を大な懐中に入れて、茶紬を着た親仁も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」 とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・梅子はわずかに会釈して内に入った。「何だ、大津の定さんが来た?、ずんずんお上りんさいと言え!」先生の太い声がありありと聞えた。 大津は梅子の案内で久しぶりに富岡先生の居間、即ち彼がその昔漢学の素読を授った室に通った。無論大学に居た時・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・そして一寸会釈したように感じられたが、もの静かに去った。男は外国織物と思わるる稍堅い茵の上にむんずと坐った。室隅には炭火が顔は見せねど有りしと知られて、室はほんのりと暖かであった。 これだけの家だ。奥にこそ此様に人気無くはしてあれ、表の・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ と蜂谷に言われて、おげんは一寸会釈したが、田舎医者の代診には過ぎたほど眼付のすずしい若者が彼女の眼に映った。「好い男だわい」 それを思うと、おげんは大急ぎでその廊下を離れて、馳け込むように自分の部屋に戻った。彼女は堅く堅く障子・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 旧足軽の一人が水を担いで二人の側を会釈して通った。 矢場は正木大尉や桜井先生などが発起で、天主台の下に小屋を造って、楓、欅などの緑に隠れた、極く静かな位置にあった。丁度そこで二人は大尉と体操の教師とに逢った。まだ他の顔触も一人二人・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫