・・・過ぎし世の町に降る雪には必ず三味線の音色が伝えるような哀愁と哀憐とが感じられた。 小説『すみだ川』を書いていた時分だから、明治四十一、二年の頃であったろう。井上唖々さんという竹馬の友と二人、梅にはまだすこし早いが、と言いながら向島を歩み・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・即ち文学上から見てローマンチシズムは偽を伝えるがまた人の精神に偉大とか崇高とかの現象を認めしめるから、人の精神を未来に結合さする。ナチュラリズムは、材料の取扱い方が正直で、また現在の事実を発揮さすることに勉むるから、人の精神を現在に結合さす・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・自分はその後受けた身体の変化のあまり劇しいのと、その劇しさが頭に映って、この間からの過去の影に与えられた動揺が、絶えず現在に向って波紋を伝えるのとで、山葵おろしの事などはとんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分に近い運命を持った在院・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原形のまま日本へ移したら、露語を読めぬ人も幾分・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・実に君は風の伝える優しい糸の音だったよ。ただその風というものが実は誰かの昔吐いた息であったのだ。僕の息でなければ外の人の息であったのだ。ほんに君と僕とは大分長い間友人と呼び合ったのだ。ははあ、何が友人だ。君が僕と共にしたのは、夜昼とない無意・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょ・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・雑誌『新日本文学』は、人から人へ、都会から村へ、海から山へと、苦難を経た日本の文学が、いまや新しい歩調でその萎えた脚から立ち上るべき一つのきっかけを伝えるものとして発刊される。私たち人民は生きる権利をもっている。生きるということは、単に生存・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・つまり、世界の勤労大衆の中からもり上って来る革命力ぶっ潰しの第一陣を日本の帝国主義が買って出ているのだから、勤労大衆の叫びを正しく反映し、一人より一人へと広くその叫びを国際的に伝える日本プロレタリア文化連盟の存在は彼等にとってどうしても邪魔・・・ 宮本百合子 「逆襲をもって私は戦います」
・・・ 先生の講義が右のごとく我々を動かしたのは、先生が単に美術品についての事実的知識を伝えるにとどまらずして、さらにそれらの美術品を見る視点を我々に与え、美術品の味わい方を我々に伝えたがためであったと思う。この点において先生は実に非凡な才能・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
・・・時おりなつかしい心でT氏のことを思い出しても、それを伝えるだけの熱心がない。それがいかにT氏の心を傷つけたかについては、私たちはあまりに無知であった。T氏もまた弱い所の多い求道者であることを、与うるとともに受けなければならない乏しい愛の蔵で・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫