・・・ 坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な所へ打たれた銀という駒銀が、進むに進めず、引くに引かれず、ああ悪い所へ打たれたと泣いている。銀が坂田の心になって泣いている。阿呆な手をさしたという心になって・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・虱は温か味が伝わるに従って、皮膚をごそ/\とかけずりまわった。 もう暗かった。 五時。――北満の日暮は早やかった。経理室から配給された太い、白い、不透明なローソクは、棚の端に、二三滴のローを垂らして、その上に立てゝあった。殺伐な、無・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・彼は地から直接に身体へ伝わる言い難い快感を覚えた。時には畠の土を取って、それを自分の脚の弱い皮膚に擦り着けた。 塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。 毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置い・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・須永というあまり香ばしからぬ役割の作中人物の所業としてそれが後世に伝わることになってしまった。そのせいではないが往来で葉巻を買って吸付けることはその時限りでやめてしまった。 ドイツからパリへ行ったら葡萄酒が安い代りに煙草が高いので驚いた・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・靴底と地面との衝撃の結果として靴底が磨滅されるおかげで、不愉快な振動が肉体に伝わることを防止するのであろう。 畳がすり切れて困るから、床を鋼鉄張りにするというのも同じような話である。 こんな不平をいだいて、二三日歩き回っているうちに・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・は、正当の意味での遺伝として生殖細胞のクロモソームを通して子孫に伝わるのでなくして、むしろ「教育の効果」として伝わるのかもしれない。われわれのまだ物心のつかないような幼時に、母親とか子守りとかといっしょにいた時に、偶然それらの動物を目撃して・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片隅のどこかが急に柔らかくなるような気がした。そしてもう一度彼を呼び返して、何かもう少しくれてやりたいような気さえした。 黙って乞食の挙動を見ていた子供等は、・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・今なら電報ですぐ伝わる。 知名の人の旅立ちでも、新聞があるために妙な見送り人が増して停留場が混雑する。この場合にも前と同じ事が言われうる。 展覧会、講演会、演芸、その他の観覧物も新聞広告で予告を受けて都合のいいものかもしれない。しか・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・高き室の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞の故に帰る。「宵見し夢の――夢の中なる響の名残か」と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・人心のこの響きに触れている限り、ローマン主義の思想は永久に伝わるものであります。これに反してナチュラリズムの道徳は前述の如く、寛容的精神に富んでいる。事実を事実としてありのままを描いたものが、真のナチュラリズムの文学である。自己解剖、自己批・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫