・・・日本はまるで筍のように一夜の中にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流であ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・――榛の木畑の方も大分伸びたろう。土堤下の菜種畑だって、はやくウネをたかくしとかなきゃ霜でやられる――善ニョムさんは、小作の田圃や畑の一つ一つを自分の眼の前にならべた。たった二日か三日しか畑も田圃も見ないのだが、何だか三年も吾子に逢わないよ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・それより池のほとりに至るまで広袤およそ三四百坪もあろうかと思われる花圃は僅に草花の苗の二三尺伸びたばかり。花圃の北方、地盤の稍小高くなった処に御成座敷と称える一棟がある。百日紅の大木の蟠った其縁先に腰をかけると、ここからは池と庭との全景が程・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすって椽の上にもはらはらと所択ばず緑りを滴らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。 床柱に懸けたる払子の先・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・丈は不吊合に伸びていて、イギリス人の a long lad なんぞと云うたちである。金は無い。親を亡くした当座で、左の腕に喪章を附けている。その時のマドレエヌはどうであったか。栗色の髪の毛がマドンナのような可哀らしい顔を囲んでいる若後家であ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・何か材料はないかと見廻したけれど藤はまだ五、六寸しか伸びて居らぬ、池のあちらに遅桜が少しばかり咲いてその下につつじがある。遅桜がさかりで藤はまだ短い、という事を歌にして見たが一向に面白くない。太鼓橋を人の渡る処を詠もうと思うたが、やはり出来・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ 二人は顔を見合せましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸びあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ ふき子が伸びをするように胸を反して椅子から立ちながら、「みんな紅茶のみたくない?」「賛成!」 忠一が悲痛らしく眉を顰めて、「何にしろ、蝦姑だろうね」といった。「全くさ」 大きな声で、廊下から篤介が怒鳴った。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・そのとき忠利はふと腮髯の伸びているのに気がついて住持に剃刀はないかと言った。住持が盥に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌よく児小姓に髯を剃らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者の頭をたくさん剃ったであろうな」と言っ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・どういう樹になるかは知らないが、芽はすでに出ているのです、伸びつつあるのです。芽の内に花や実の想像はつかないとしても、その花や実がすでに今準備されつつある事は確かです。今はただできるだけ根を張りできるだけ多く養分を吸い取る事のほかになすべき・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫