・・・村越 仏壇がまだ調いません、位牌だけを。七左 はあ、香花、お茶湯、御殊勝でえす。達者でござったらばなあ。村越 七左 おふくろどの、主がような後生の好人は、可厭でも極楽。……百味の飲食。蓮の台に居すくまっては、ここにもたれて可・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・俺の位牌でも買や可いのに。お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。早瀬 樹から落ちた俺の身体だ。……優しい嫁の孝行で、・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・その家は今でも連綿として栄え、初期の議会に埼玉から多額納税者として貴族院議員に撰出された野口氏で、喜兵衛の位牌は今でもこの野口家に祀られている。然るに喜兵衛が野口家の後見となって身分が定ってから、故郷の三ヶ谷に残した子の十一歳となったを幸手・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ で、葬式の済むまでは、ただワイワイと傍のやかましいのに、お光は悲しさも心細さも半ば紛らされていたのであるが、寺から還って、舅の新五郎も一まず佃の家へ帰るし、親類親内もそれぞれ退き取って独り新しい位牌に向うと、この時始めて身も世もあられ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・先妻の位牌が頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞った。・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そこへ位牌堂から先祖の位牌が持ちだされて、父の遺骨が置かれた。思いがけなかった古い親戚の人たちもぼつぼつ集ってきた。村からは叔父と、叔母の息子とが汽車で来た。父の妹の息子で陸軍の看護長をしているという従弟とは十七八年ぶりで会った。九十二だと・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 盆が来て、みそ萩や酸漿で精霊棚を飾るころには、私は子供らの母親の位牌を旅の鞄の中から取り出した。宿屋ずまいする私たちも門口に出て、宿の人たちと一緒に麻幹を焚いた。私たちは順に迎え火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見ている前・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・お三輪が両親の古い位牌すら焼いてしまって、仏壇らしい仏壇もない。何もかもまだ仮の住居の光景だ。部屋の内には、ある懇意なところから震災見舞にと贈られた屏風などを立て廻して、僅かにそこいらを取り繕ってある。長いことお三輪が大切にしていた黒柿の長・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・それかといって棺桶や位牌のごとく生活の決算時の入用でもない。まずなければないでも生きて行くだけにはさしつかえはないもののうちに数えてもいいように思われる。実際今でも世界じゅうには生涯一冊の書物も所有せず、一行の文章も読んだことのない人間は、・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・見れア忰の位牌を丁と床の間に飾ってお膳がすえてあると云う訳なんだ。坊さんは、××大将は浄土だが、私は真言だからというので、わざわざ真言の坊さんを二人まで呼んで、忰のためにお經をあげて下すったがやすよ。 それから、つい近年まで、法事のある・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫