・・・暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、明日とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが好・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そしてこの一秒時が無窮に長く思われて、これを見詰めているのが、何とも言えぬ苦しさであった。次の刹那には、足取り行儀好く、巡査が二人広間に這入って来て、それが戸の、左右に番人のように立ち留まった。 次に出たのが本人である。 一同の視線・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・朝から晩まで何とも知れぬものにあこがれている心持は、ただ詩を作るということによっていくぶん発表の路を得ていた。そうしてその心持のほかに私は何ももっていなかった。――そのころの詩というものは、誰も知るように、空想と幼稚な音楽と、それから微弱な・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 五 人は何とも言わば言え…… で渠に取っては、花のその一里が、所謂、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる紅の霞に乗って、あまつさえその美しいぬしを視たのであるから。 町を行くにも、気の怯けるまで、郷里・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・家におった昔、何かにつけて遊んだ千菜畑は、雑然として昔ながらの夏のさまで、何ともいいようなくなつかしい。 堀形をした細長い田に、打ち渡した丸木橋を、車夫が子どもひとりずつ抱きかかえて渡してくれる。姉妹を先にして予は桑畑の中を通って珊瑚樹・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・じられとったんで、ただ土くれや唐黍の焼け残りをたよりに、弾丸を避けながら進んで行たんやが、僕が黍の根を引き起し、それを堤としてからだを横たえた時、まア、安心と思たんが悪かったんであろ、速射砲弾の破裂に何ともかとも云えん恐ろしさを感じた。仲間・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・椿岳は喜んで受けて五厘の潤筆料のため絵具代を損するを何とも思わなかった。 尤もその頃は今のような途方もない画料を払うものはなかった。随って相場をする根性で描く画家も、株を買う了簡で描いてもらう依頼者もなかった。時勢が違うので強ち直ちに気・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。何ともいうことができない。ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そのなよやかな、弱々しく見える、肉体の表わした衣物の上の線は、実にほゝえまずにはいられないほど無邪気な、何ともいえない、また貴い味いを、腰かけている母親の温かな、ふっくらとした膝の上に描いています。 あくまで描く上に真実であるミレーは、・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・布団は垢で湿々して、何ともいえない臭がする。が、それはまだ我慢もできるとして、どうにもこうにも我慢のできないのは、少し寝床の中が暖まるとともに、蚤だか虱だか、ザワザワザワザワと体じゅうを刺し廻るのだ。私が体ばかり豌々させているのを見て、隣の・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫