・・・て、眼は開いているが、如何しても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女の膝、鼠地の縞物で、お召縮緬の着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そして恰も上から何か重い物に、圧え付けられるような具合に、何ともいえぬ苦しみだ、私は強いて心を落着・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・けれどもこの汁は、どじょう、鯨皮、さわら、あかえ、いか、蛸その他のかやくを注文に応じて中へいれてくれ、そうした魚のみのほかにきまって牛蒡の笹がきがはいっていて、何ともいえず美味いのである。私は味が落ちていないのを喜びながら、この暑さにフーフ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・繃帯をしてから傷の痛も止んで、何とも云えぬ愉快に節々も緩むよう。「止まれ、卸せ! 看護手交代! 用意! 担え!」 号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高で、大の男四人の肩に担がれて行くのであるが、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・す――何卒紙背の微意を御了解くださるように念じあげます云々―― 終日床の中にいて、ようよう匐いでるようにして晩酌をはじめたのだったが、少し酔いの廻りかけた時分だったので、自分はその手紙を読んで何とも言えない憂鬱と、悩ましい感じに打た・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・『いい心持ちだ吉さんおいでよ』と呼ぶはお絹なり、吉次は腕を組んで二人の游ぐを見つめたるまま何とも答えず。いつもならばかえって二人に止めらるるほど沖へ出てここまでおいでとからかい半分おもしろう游ぐだけの遠慮ない仲なれど、軍夫を思い立ちてよ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・始めは、そういうのを見ても何ともない。ところが、一度、日本人が彼等に殺されたのを目撃すると非常な敵愾心が湧き上って来る。子供の時からつめこまれた愛国心とかいうものがまだどっかに残っているのかな。何故、吾々がシベリアへよこされて、三年兵になる・・・ 黒島伝治 「戦争について」
・・・とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、「何とも無い。」 附き穂が無いという返辞の仕方だ。何とも無いと云われても、どうも何か有るに違い無い。内の人の身分が好くなり、交際が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・それこそ、この世界中で一ばん美しい女ではないかと思われるような、何ともいえない、きれいな女の画姿です。ウイリイはびっくりして、その顔を見つめました。 ウイリイはやっと、その羽根をポケットにしまって、また馬を走らせました。そしてどこまでも・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫の烈し・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ どういう訳だか分らないが、あの右の手の何とも名状の出来ない活きた優雅な曲線と鮮やかに紅い一輪の花が絵の全体に一種の宗教的な気分を与えている。少し短くつまった顔の特殊なポオズも、少しも殊更らしくなくてただ気高いような好い心持がするばかり・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫