・・・笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。 仁右衛門は押太とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もま・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私から・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあると見え、残る牛も出る牛もいっせいに声を限りと叫び出した。その騒々しさは又自から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思うのか、右往左往・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・いくら憎く思って見てもいわゆる糠に釘で何らの手ごたえもない。あらゆる偽善の虚栄心をくつがえして、心の底からおとよさんうれしの思いがむくむく頭を上げる。どう腹の中でこねかえしても、つまりおとよさんは憎くない。いよいよおとよさんがおれを思ってる・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・筆力が雄健で毫も窘渋の痕が見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。 馬琴は若い時、医を志したので多少は医者の心得もあったらしい。医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかった・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 前にも云ったように、幾度快よいリズムをくりかえしても、如何に柔かな感じや、快よい気分をそゝろうとしても、既に覚醒きっている心の人には、何らの新しいものとなっては響かない。たゞ単的に古い文化を破壊し、来るべき新文化の曙光を暗示するものの・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・来二三度独参したことがあるがいつも頭からひやかされるので、すっかり悄げていっこうに怠けているのだが、しかしこうした場合のことだから、よもや老師はお見捨てはなさるまい、自分は老師の前に泣きひれ伏しても、何らか奇蹟的な力を与えられたいと、思った・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・知るということと行うということとに何ら距りをつけないと云った生活態度の強さが私を圧迫したのです。単にそればかりではありません。私は心のなかで暗にその調停者の態度を是認していました。更に云えば「その人の気持もわかる」と思っていたからです。私は・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・そして喜んで私塾設立の儀を承諾した、さなきだにかれは自分で何らの仕事をか企てんとしていて言い出しにくく思っていたところであるから。「杉の杜の髯」の予言のあたったのはここまでである。さてこの以後が「髯」の予言しのこした豊吉の運命である。・・・ 国木田独歩 「河霧」
出典:青空文庫