・・・彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。 女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚きながら、無暗に軍刀をふりまわし・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そして始終齷齪しながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。何事も独りで噛みしめてみる私の性質として、表面には十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・二坪にも足らない小池のまわり、七度も八度も提灯を照らし回って、くまなく見回したけれども、下駄も浮いていず、そのほか亡き人の物らしいもの何一つ見当たらない。ここに浮いていたというあたりは、水草の藻が少しく乱れているばかり、ただ一つ動かぬ静かな・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・私は、人の命のはかなさ、書物の持つ生命のはかなさを考えるだけで、何一つ、所有欲は起らないのであります。 たゞ漢詩は、和本の木版摺で読まないと、どういうものか、あの神韻漂渺たる感が浮んでまいりません。・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・どうせ今まで何一つ立派なこともしてこなかった体、死んでお詫びしたくとも、やはり死ぬまで一眼お眼に掛りたく……。最後の文句を口実に、自嘲しながら書いた。さっそくお君が飛んでくると思っていたのに、速達で返事が来た。裏書きが毛利君となっており、野・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ だから、仕事以外のことは何一つ考えようとしないし、また仕事に関係のないことは何一つしたがらない。そういう点になると、われながら呆れるくらい物ぐさである。 例えば冠婚葬祭の義理は平気で欠かしてしまう。身内の者が危篤だという電報が来て・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\気味悪るく視廻しながら、三百は斯う呶鳴り続けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引払うことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑える為め手を振って繰返すほかなかった。「……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、侘しく眺められた。 永い間自分は用心して、子を造るまいと思ってきたのに――自然には敵わないなあ!――ちょうど一年前「蠢くもの」という題でおせいとの醜い啀み合いを書いたが、その・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫